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ミニコミ152号【新選組を郷土の誇りに 大河続編の制作にも一役】
日野新選組同好会「名誉局長」 峯岸 弘行さん(49歳)
「えいえいおーっ!」
威勢のよい勝ちどきとともに、おなじみの青羽織をまとった老若男女が一斉に拳を上げて日野市内を練り歩いた。5月初旬に開催された「ひの新選組まつり」。全国から約600人の新選組ファンも集う中、副長・土方歳三の生誕地代表として日野新選組同好会が今年もパレードを盛り上げた。
いまはこの同好会の「名誉局長」だが、局長(代表)を務めていた5年前までは、「局長・近藤勇こと峯岸弘行」と名乗っていた。会員たちも局長の面接を受けて「正隊士」となり、実在した新選組隊士を名乗ることができる。
その会員は現在、70代のお年寄りから女子大生、高校生まで40人。うち3分の2が女性だ。主な活動は、新選組に関する勉強会、隊士の子孫や研究者による講演会、それに史跡の見学会。ときには、土方が生涯を閉じた函館や新選組が活躍した京都などに「遠征」して元隊士の慰霊をしたり、各地のパレードに参加して日野をPRしたりする。
新選組との出会いは、中央大学1年生のときだった。土方を主役に描いた司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」を読んだ。「日野宿」「高幡不動尊」――そこに登場する馴染みの地名。自分が生まれ育った日野と新選組との深いつながりを知って興奮した。
「百姓に生まれ、剣の道でのし上がった。負けると知りながら節義を貫き、守るべきもののために信じる道を走り続けた」。そんな土方や近藤らの生き方にも惚れ、全国の新選組の名所を訪ね歩くようになり、現地の同好会とも交流を深めた。
「新選組ゆかりの地である日野でも、新選組を熱く語り合える仲間がほしい」。2000年春に13人の同志を集めて同好会を立ち上げた。一時は120人を超えたこともある。
いま人数は減ったが、会員の情熱がそれを補う。04年にNHK大河ドラマ「新選組!」が放送された後には、続編を求める3万8千人分の署名を1年かけて集めた。それが大河史上初の続編制作へとつながった。
ドラマの影響で会の知名度も一気に向上したが、まだ満足できないことがある。
官軍との激戦地だった福島県会津地方では、新選組は地元を語る文化の一部になっているという。それに比べて日野での新選組の位置づけは、商売や観光の目玉というところに置かれたままになっているのではないか。
「郷土の誇りとして、新選組が日野のまちに根付いていってほしい」
この思いこそが、同好会の原点でもある。
和菓子の老舗・高幡まんじゅう松盛堂の会長。06年から日野市議会議員を務めている。

写真は峯岸さん提供
《中央大学ジャーナリズムゼミ》大浜悠佳・佐宗日奈子・高橋哲朗
2010年8月20日(金)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ151号【甲子園まであと一歩
「考えさせる野球」で強豪校に】
都立日野高校野球部 監督 嶋田雅之さん(47歳)
あの日のことを思い出すと、いまも悔しさがこみあげる。
昨年夏の全国高校野球選手権大会西東京大会準決勝で強豪・日大三高と対戦、中盤まで4点をリードしながら、6対7で競り負けたときのことだ。しかし、選手たちは臆することなく戦いを挑み、春、夏の全国優勝校を撃破するまで、あと一歩というところに迫った。それは、自分の中で「甲子園」が初めて現実味を帯びた瞬間でもあった。
日本体育大学を卒業後、体育の教諭となり、都立の八丈高、砂川高、小平西高を経て、2007年に日野高に赴任した。監督を引き受けたのは、翌年の秋。それからは2つのことに力点を置き、選手たちの指導にあたってきた。
1つは、選手たちの基礎体力を引き上げること。そのために、それまでは半日で終わっていた休日の練習を1日に延ばし、日々の練習では、「地味できつい」ランニングや筋肉トレーニングの量を増やした。
もう1つは、選手たち自身に考えさせること。守備でも打撃でも手とり足とりの指導はせず、気付いた点だけを伝える。「重心が前になっている」「軸足が動いている」。それをどう修正していくかは、選手自らが考え、実行していくように仕向けた。
その成果は思った以上に早く表れた。昨年の西東京大会でのベスト4入り。続いての秋の都大会では、準々決勝の最終回に4点差を跳ね返してサヨナラ勝ちを収め、都立高でただ一つ4強入りを果たした。
実戦の舞台では、局面ごとに臨機応変のプレーが求められる。常にそのことを想定し、それに打ち勝つ方法を個々に考え、技術を高める練習を積んできた。それによって、「うちの選手たちは、多くの『引き出し』を持っている」。そのことを確かな手応えとして感じ取れる逆転劇だった。
指導の原点は30年前、桜美林高校野球部に在籍していた当時に遡る。夏の甲子園で初出場、初優勝の偉業を成し遂げた監督と、野球部長の教諭から同時に指示が飛ぶ。2人の指導はときに異なり、戸惑う場面も少なくなかった。そこから学んだのが、自ら考え、動ける選手になることの大切さだった。
「野球は瞬時の判断とプレーが求められるスポーツ。言われたことをやるだけではだめだ」
昨年の夏、日野高OBのミュージシャン、故忌野清志郎さんの代表曲「雨あがりの夜空に」に乗った大声援が神宮球場に響いた。今年の西東京大会は7月3日に開幕。その曲を背に、都立高では唯一のシード校として、甲子園への熱い想いを込めた戦いが始まる。

《中央大学ジャーナリズムゼミ》江種伸彦・後藤隆之・常谷奈緒・高橋哲朗
2010年7月20日(火)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ150号【ミニコミ取材を財産に報道の世界へ 中央大学ジャーナリズムゼミ紹介】
中央大学でジャーナリズムを学んでいる私たちゼミ生は、中央大学でジャーナリズムを学んでいる私たちゼミ生は、日野市の朝日新聞販売店(ASA)6店が毎月発行しているミニコミ紙に地元で活躍している方々を紹介させていただいています。今月は、私たちのゼミ活動について報告させていただきます。 私たちのゼミにはいま、法、経済、商、文、総合政策の各学部から2年生12人、4年生6人、聴講生の6人が集まり、朝日新聞の元記者で社会部長、編集局長を務めた松本正特任教授のもとで日々の活動に励んでいます。
活動の柱は主に2つあります。1つは週1回の授業です。ここでは「普天間基地移設問題と日米同盟」など国内外で起きている出来事をとりあげ、新聞やニュース映像を教材にしながら複雑に絡み合った問題を読み解き、本質を探る勉強を重ねています。そのうえで、自分の考えを文章にまとめ、ゼミ生全員で批評し、議論をしています。このために授業は所定の90分では終わらず、通常は270分、時に閉門時間の夜11時まで続くことがあります。 活動のもう1つの柱が、ミニコミ紙の取材です。ASAの支援をいただき、ゼミ生2、3人で班を作って地元で活躍されている方々を取材し、記事にしてきました。これまでに紹介させていただいた方は34人を数えます。
取材や記事の執筆ではいつも多くの壁に突き当たります。紹介させていただく方をどう探し出すか。締切日が迫った時などは、人を見つけ出せずにミニコミ紙を白紙で出してしまった場面が夢に出てきて、夜中に跳び起きるということもありました。
また、1回の取材では十分にお話を聞けず、いつも再取材、再々取材をお願いしています。こうした取材を通して得られた経験は、私たちの貴重な財産です。
この春に卒業し朝日新聞社に入社した成田太昭先輩は、「何度も足を運びお話をうかがっている中で、信頼を得られたと思える瞬間が何回もあった。その喜びを知るたびに、記者を目指そうという思いが強くなっていった」と話しています。
「松本ゼミ」がスタートして5年、卒業生は、朝日新聞と読売新聞、毎日新聞、NHKに各3人が合格。それに、日本経済新聞や中日新聞、信濃毎日新聞、テレビ朝日などの入社試験を突破し、JR東日本、東京電力、コスモ石油などマスコミ以外で活躍している卒業生もいます。
読者の皆様からは毎月、ご意見、ご感想をお寄せいただき、本当にありがとうございます。これからもご愛読、ご支援をお願いいたします。

《高橋哲朗・追分友里》
2010年6月20日(日)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ149号【安全を究め、地球環境に優しい車を 次世代の電気自動車を日野から世界に】
首都大学東京大学院システムデザイン研究科教授 武藤 信義さん
日野市旭が丘の首都大学東京日野キャンパス。真冬の凍った路面を2台の車が走る。ブレーキを踏むと1台は大きくスリップしたが、もう一台はわずかな横揺れもなく静かに止まった。「FRID EV」と名付け開発に取り組んできた電気自動車の走行実験。見守る学生から歓声があがった。
「FRID EV」のコンセプトは、「安全性を究極の域にまで高め、地球環境の保護に貢献しながら、快適な走行を楽しむ」。この10年余り、中でも「安全性」にこだわりを持って研究を重ね、2年前に一つの「集大成」となる今のタイプの車を完成させた。
ボディーは市販のガソリン車だ。しかし、前輪と後輪の両方にモーターが据え付けられ、一方のモーターが故障したときにはもう一方のモーターが瞬時にそれを感知し、同じ速度で走り続ける装備が施されている。
一つのモーターだけだと、故障したときは車が急停車し、横に滑ったり、後続の車に追突されたりする恐れがある。このシステムを備えておけば、そうした危険は回避することができる。
また、前輪と後輪が独立して動く独自のシステムを考案。雪道や凍った路面を走るときには、前輪が悪路に触れた瞬間にセンサーで感知して後輪に伝え、タイヤの空転やスリップを抑える工夫もこらされている。
自ら企業などを回って開発資金を集め、寝るのは毎日午前2時を過ぎてから。「日野で生まれたFRIDEVは、いずれ次世代の車社会の中心になる」。積み上げてきた研究の成果は国際会議で発表し、数々の特許も取得、すでに実用化できる段階にまで来ているという。
大学院で応用物理を学んだ後、電車やエレベーターなど「乗り物全般」を扱う企業の研究室に籍を置いた。しかし、企業は費用と価格とのつり合いにとらわれる。製品の安全性は追求しているものの、想定外で起きるトラブルの対応までは考えていない。そのことに研究者として疑問を抱き、究極の安全性を追い求める場として首都大学東京を選んだ。
「完璧」と思った物でもいずれは壊れる。それが乗り物であれば、人の生命を脅かしかねない。「想像力を豊かにし、起こりうる故障を常に考えながら、物づくりに当たるのが工学の使命だ」
3月の卒業式。ともに研究にあたってきたゼミ生たちに色紙を贈った。
「人間万事塞翁が馬」
社会で生きていくうえで一喜一憂することなく、夢を求めてがんばり続けてほしい。そうした思いを込めて毎年、ゼミ生たちに贈り続けてきた言葉だ。
《取材と記事》中央大学ジャーナリズムゼミ=佐藤百合・辻侑香里
2010年5月20日(木)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ148号【氷上のF1、世界一の美で走り抜けた 中央大南平寮から五輪の舞台に】
バンクーバー五輪ボブスレー代表 浅津 このみ さん(23歳)
バンクーバー郊外、ウィスラーの五輪会場。現地時間2月23日、夜空に雪が舞う悪コンディションの中、175センチ、73キロの体を瞬時に躍動させ、重さ190キロのそりを一気に押し出した。初めのスプリット5秒56。イメージ通りのダッシュができた。
全長1300メートル、最高時速140キロで16のカーブを乗りきる。このコースを2日間で4回滑走し、合計タイムで順位が決まる。3回目までは難所のカーブでタイムをロスしたが、4回目、操縦を担当する桧野真奈美選手(29歳)の技が冴え、21チーム中16位まで順位を上げることができた。
日本チームのそりには振袖姿と富士山をデザインした美しい絵が描かれ、「芸術では金メダル」と会場の話題をさらった。
「氷上のF1」と言われるこの競技に出会ったのは、これより半年ほど前、昨年8月のことだった。ボブスレー日本代表監督から突然、長野・菅平の合宿に呼ばれた。
ボブスレー2人乗りには、操縦を担う「パイロット」、重いそりを瞬時に押し出してハイスピードに乗せる「ブレーカー」という明確な役割分担がある。
中央大学女子陸上部に所属し、7種競技で08年の日本学生陸上競技対校選手権大会優勝、日本選手権で2位に入った実績。「走る・跳ぶ・投げる」の力を兼ね備えた高い身体能力にブレーカーとして白羽の矢が立てられ、「君なら代表になれる」と繰り返し誘いを受けた。
合宿には、ソフトボールのエースでシドニー、アテネ五輪のメダリスト高山樹里選手ら「雲の上のような」アスリートが集まっていた。代表に選ばれるのは、その中の1人。「挑戦する以上は負けられない」。12人の候補から絞られた4人で欧米6都市を転戦、ワールドカップの実戦で競い合うサバイバルの選考に臨み、抜きん出たパワーで五輪出場権獲得に貢献、同時に代表の座を射止めた。
大学では教育心理学を専攻。日野市南平の寮に住み、「故郷の出雲に似ている」豊かな自然の中で体を鍛え、技を磨き、中央大学125年の歴史の中で初の冬季五輪出場という快挙にもつなげた。
「自分に出来ることは、恐れず、ためらわずチャレンジしていく。アスリートとして生きていくうえで、オリンピックはそのことを教えてくれた」。島根の企業に所属し、これからも7種競技とボブスレーを続ける。追う夢は、「夏と冬の五輪に出場し、2つの競技でメダルをとること」。天に突き抜けるような笑顔で、力強くそう語った。

写真は浅津さん提供(バンクーバー五輪閉会式で)
《取材と記事》中央大学ジャーナリズムゼミ=天野美香・長井雅和
2010年4月20日(火)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ147号【団地全体で高齢者を支える態勢を 「長生きしてよかった」と思える団地に】
多摩平の森団地自治会長 笹原 武志さん(62歳)
空いっぱいにユリノキが枝を広げる並木道。住民が力をあわせて草花を育てる共同花壇。その間を楽しげに散策する親子の姿。日野市多摩平の森団地には、映画のワンシーンのような光景がいたるところに広がっている。
故郷の山形から上京し、この団地に居を定めたのは、33年前のことだった。13階建て1棟の部屋数は、自分が生まれ育った村の総戸数と同じ102戸。首都のベッドタウンを象徴する大規模団地の生活に戸惑いはしたが、いつしか住民同士の心地よい連帯の輪が広がり、ここでの暮らしを「心の底から愛している」と実感できるまでになった。
ここに至るまでの間、最も記憶に残っているのは、自治会長をしていたときから取り組んできた団地の建て替えプロジェクトだ。
全国で初めて日本住宅公団(現・都市再生機構)と日野市、それに自治会の三者による建て替え協議会を結成。「壮大な実験」と覚悟を決めて公団、市側と渡り合い、高齢化していく団地の将来を見据えながら、「より良い暮らし」を実現していく具体案を住民の側から積極的に提案した。結果、多くが採用され、その後の公団住宅建て替えのモデルになった。
20年近くに及んだ建て替えは、2年前に完了した。そして、いま、「暮らしやすい団地作り」に向け、次なる「壮大な実験」に取り組んでいる。
団地のたたずまいは、ほぼイメージ通りに仕上がったが、高齢化の波も予想していた通り団地の隅々にまで押し寄せてきている。かつては世帯主の大半が30代から40代、子どもたちの歓声があちこちに響いていた情景は一変し、今では70歳以上の人が900人を数える。
この時代の移り変わりに沿って、高齢となった人たちを団地全体で支えていく態勢をどのように整えていくか。「ここに住んでよかった、長生きしてよかった」。そうした団地のコミュニティーをどう作り上げていくか。
寝たきり予防の体操教室、健康について学ぶ講座。まだ手探りではあるが、団地で開催する様々な催しには、多いときで200を上回る人が集まり、ここでもまた世代を超えた交流の輪が確実に広がっている。

《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=二俣友香・後藤隆之・脇山理子
2010年3月20日(土)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ146号【人と犬との共生目指して ドッグランで伸び伸びと】
「ひのわんパークの会」前会長 伊藤 叡二さん(69歳)
日野市上田の浅川河川敷に都内で初めての市営ドッグラン(犬の遊び場)「わんパークひの」がオープンしたのは、05年10月のことだった。ボランティア団体「ひのわんパークの会」会長としてその開設に奔走し、いまも「犬の目線」に立ちながら、人と犬とが共に歩んでいける地域社会の実現に情熱を燃やしている。
小型犬用に448平方メートル、大型犬用に800平方メートル。駒形公園の跡地に設けられたドッグランには市外からも愛犬家が集まり、休日には100匹から200匹の犬たちが走り回る。飼い主たちの会話も弾み、互いの経験談が「しつけ」の格好の教材にもなっている。
10数年前、愛犬のビーグルを散歩させていたとき、ラブラドールレトリバーの親子によく出会った。ある日、その3匹を公園に放してみたところ、取っ組み合い、じゃれあいながら30分も1時間も飽きずに遊びまわった。「美しい」。伸び伸びと駆け回るその姿に、しばし見惚れた。「これこそが、本来の犬の姿だ」
しかし、現代社会では、公園内であっても犬をリードに繋いでいなければ都条例違反になる。
「犬を安全に思い切り遊ばせられる空間を作ってあげることはできないか」。子犬のときから多くの人や犬と触れ合う機会を設けていけば、吠え癖や噛み癖がつくのを防ぐこともできる。
同じ思いを持っていた愛犬家が集い、その実現に向けて行動を開始したのは、01年1月のこと。市有地に市営ドッグランの開設を求める署名活動から始め、2000人の賛同を得て市や市議会に陳情、請願を続けた後、05年春にそれが実り、ようやくオープンにこぎつけることができた。
会のメンバーは現在30人ほど。自らもその一員としてボランティアでドッグランの運営にあたり、プロの訓練士による「しつけ教室」の開催などにも携っている。
ここまでの10年の道のり。「仲間の皆さんと一緒に社会活動として行動できたことが大きな喜び」。その仲間をつないでいるのは、犬たちの幸せを願う心。「だから、ドッグランを走り回る犬たちもまた会の有力なメンバーなんです」

《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=追分友里・大浜悠佳・土山万貴子・成田太昭
2010年2月20日(土)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ145号【日野で巣立ちニューヨークで開花 音楽は感性、「旋律に色が見える」】
ピアニスト さい ちはる さん
初めは優しくゆったりした旋律の曲。次にはフラメンコ調の情熱的な曲。締めくくりはショパンの「子犬のワルツ」。秋晴れに恵まれた文化の日、日野市民会館で催された市功労者の表彰式。そのオープニングコンサートで、約400人の市民を前に美しい音の調べを披露した。
在日韓国人3世として日野市日野で生まれ育った。国立音大付属高を卒業後すぐに渡米。名門・マンハッタン音楽院の博士課程を03年に修了してからは、ニューヨークを拠点に音楽活動を進めている。
「頼まれればいつでも」というほど数多くのコンサートをこなし、市民会館でのコンサートも今回で3回目になる。08年秋には日本でCDデビューを果たし、それに合わせて港区のサントリーホールでリサイタルを開いた。
ピアノを始めたのは6歳のとき。「ピアノを習っている友だちが先生からもらうヒヨコのハンコがほしかった」。プロを目指すには遅いスタートだったが、中学生のときには1日4時間の特訓に励み、めきめきと頭角を現した。
しかし、振り返ると、ピアノ一筋の人生というわけではなく、少女時代は「おてんば娘」で育った。多摩川で水遊びをしたり、雪の日にはソリで遊んだり。「音楽は感性」という思いを強く抱くいま、豊かな緑、四季の美しさにあふれた日野の自然環境は、音楽家としての自分には「天国だった」と語る。
「音楽だけでは音楽は分からない」が持論でもあり、渡米後も初めは心理学や人類学などを学べる総合大学を選んだ。最近ではアクリル絵も始め、それからは自らが奏でるピアノの旋律の中に、「色が見えるようになった」という。
人とのつながりも大切にし、見知らぬ人にもよく話しかける。いまマネージャーをしてくれている浦真弓さん(60)とも、学生のときに米国から一時帰国した際に日野市内のバス停で出会い、話が弾んだことがきっかけだった。
「音楽は『分かち合い』。自然や人間、いろんなことにつながっている」
日野では母校の小学生と共演した。他の演奏家との共演にも活動の幅を広げ、今後は、ダンサーなど他分野の芸術家とのコラボレーションも考えている。

写真は、さいさん提供
《取材と記事》中央大学ジャーナリズムゼミ=大友らむね・高橋哲朗
2010年1月20日(水)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ144号【「美しいけん玉」を伝えたい 極めた道は「原点復帰」】
けん玉の実力最高位 田辺 重雄さん(52歳)
技の数は何万にものぼり、その腕前を競う全国大会や段位の認定制度まで設けられている。そんな奥深いけん玉の世界に魅了されて19年。実力で取得できる最高位の六段に昇りつめた今も「美しいけん玉」の普及を目指し、後進の指導に情熱を燃やしている。
けん玉の奥義に触れたのは日野市に移り住んだ91年の春、新宿御苑で「日本けん玉協会」の名人たちによる模範演技を目にしたときのことだった。名人は膝を深く折り曲げた姿勢から体を一気に伸ばして持ち手の「けん」を空中に飛ばし、体操選手のようにそれを2回転させた後、手に握った玉の穴にけん先をすっぽりと収めた。
「2回転飛行機」と名付けられた上級クラスの技。子どものころの遊びとは「異次元」の妙技に衝撃を受け、ひの社会教育センター「けん玉道場」の門を叩いた。
道場での週1回の練習に加え、自宅でも毎日1時間の特訓に励んだ。さらに勤め先の同僚たちとけん玉サークルを作って技を磨き、11回目の挑戦で五段を取得、99年に念願だった六段への昇格を果たした。
それを機に指導者としての道に入り、道場ではいま小学生から70歳代まで20人ほどの指導にあたっている。
その一方、けん玉日本一を目指す子供たちを対象に「塾」を設立して高度な技の伝授にも努めている。塾生は10人に満たない数ながら、08年には文部科学大臣杯で男子が準優勝、09年には女子が3位に輝いた。
指導は試行錯誤の繰り返しだった。「どうすれば技を上手く伝えることができるのか」。思いを巡らせていたある時、名人と言われている一流の人たちの技に共通の型があることに気づいた。構えた場所(原点)にけん玉をしっかりと戻す(復帰)。基本に忠実に沿ったそのフォームは『原点復帰』と呼ばれ、それはそのまま「けん玉の美」を体現していた。
構える位置、技を繰り出す角度、重心のかけ方。手とり足とりの細かな指導で子どもたちは着実に腕を上げ、技を会得できたとき「先生、できたよ」と体を小躍りさせる。
「美しいけん玉」をもっと広めていくために、自らのホームページ(http://kendama.com/)でも、その極意を公開している。

《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=實延達郎・高橋哲朗
2010年1月1日(金)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ143号【「日野っ子」トキを佐渡の空に 飼育現場のサポート役に徹して2年】
多摩動物公園 野生生物保全センター長 冨田恭正さん(45歳)
日本の空から一度は絶滅したトキを、新潟県の「佐渡トキ保護センター」から預かって間もなく2年。昨年は2組の親鳥から8羽の新たな生命が生まれ、うち4羽が今年9月、佐渡の空に放たれた。
多摩動物公園の「野生生物保全センター」は、絶滅が危惧されている動物を飼育し繁殖させ、保護する目的で06年に開設された。
その2代目センター長に就任したのは07年4月のこと。当時、鳥インフルエンザに鳥が感染する被害が各地で発生し、万一これが佐渡に広がってしまえば、中国から貰い受け繁殖させてきたトキが全滅してしまう恐れもあった。そのリスクを避ける「疎開先」として環境省から真っ先に白羽の矢を立てられ、この年の末に2組4羽のトキが佐渡から送られてきた。
トキの飼育と繁殖は「国家プロジェクト」でもある。それだけに、失敗は許されない強いプレッシャーの中でのスタートだったが、経験豊富な2人の飼育係の力を信じ、現場のサポート役に徹してきた。モットーとしてきたのは「議論はしても余計な口出しはしないこと」という。
この2年間、実際の飼育、繁殖を通して学んだことが、いくつもあった。
トキは産卵した直後、巣で落ち着いて卵を抱こうとしない。くちばしで卵を何度も拾い上げては動かし、その拍子に巣から落としてしまうこともある。そこで飼育係が巣の大きさを小さくしてみると、拾い上げずに転がして卵を動かすようになり、かえって落下を防ぐことができた。
これもまた、トキの性格や行動を細かく観察し、常に探究する姿勢から生まれた発見だった。
センター長として年に2、3回は佐渡を訪れる。そこで、こうした成功体験などを伝えるとともに、佐渡での事例も見聞きし、それぞれのスキルアップにもつなげてきた。
昨年に続き今年も10羽がふ化し、順調に育っている。この「日野っ子」トキもいずれは佐渡に移され、地元のトキとともに空に飛び立つ。
子どものころから大の虫好きで、多摩動物公園の昆虫の飼育係に憧れた。それがかなえられたいまでは、大空を舞うトキの優雅な姿が、新たな夢として膨らんでいる。

《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=高橋哲朗・土山万貴子
2009年11月20日(金)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ142号【レジ袋有料化でゴミ減量運動を高めよう スーパー「いなげや」3店舗で実現】
日野市ごみ減量推進市民会議 小野寺 勲さん(73歳)
「スーパーのレジ袋をなくす運動をゴミ減量作戦の起爆剤に」
そう思いたち活動の先頭に立って6年。それはいま、一部ながらもレジ袋の有料化へとつながり、環境省が発表する「ごみ排出量の市町村ランキング」で日野市がベスト5にランクされる原動力の一つにもなっている。
社会を見渡すと「使い捨て」が日常の光景になり、スーパーのレジ袋はその象徴ともいえる。メーカーの調査によると、その使用量は1世帯で年間600枚。どうしたら、これを使わない社会に変えていくことができるか。手探りの中で、まずは毎月5日を「その日」と決め、雨の日も風の日も日野市内13のスーパーマーケットの店先に立ってチラシを配り、マイバック持参を呼びかけてみた。
多くの買い物客が、チラシをしっかり受け取ってくれた。市の意識調査でも「買い物袋を持参すべきだ」と答える人の割合が9割を超えていた。確かな手ごたえ。しかし、それは錯覚だったことに気づかされた。スーパーの出口で調べてみると、マイバックを手にした人の数は、ほとんど増えていなかったのだ。
「頭で理解してもらうだけではなく、それを行動へと変えていく何かが必要だ」
「レジ袋を有料にしてもらったら、マイバックで買い物する人が増えるのではないか」
以来4年間、市内13のスーパーを訪ね、レジ袋の無料配布中止と有料化を働きかけてきた。顧客が減ってしまうことを恐れ多くは有料化に踏み切れないでいるが、そうした中で「いなげや」が日野市内3店舗でそれを実現させてくれた。「環境意識が高い日野市ならば有料化しても売り上げに影響は出ない」。そう考えての決断だったといい、レジ袋は1枚5円で販売され、売上金は地元の小学校に環境教材として還元されている。
都心に住んでいたころ、たまたま乗った中央線の車窓から見た日野の美しい自然に魅了され、1980年に多摩川に近い現在の住居に移り住んだ。マーケティング関係の仕事をリタイアした後は、日野の街づくりや自然を守る活動に携わり、いまも環境問題に関連した5つの市民団体に所属し、活動を続けている。

《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=佐藤百合・高市由希帆・二俣友香
2009年10月20日(日)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ141号【チェロとの運命的出会いから20余年 老人施設、学校に響く「癒しの音色」】
チェロ演奏家 久木田 薫さん(30歳)
日野市東平山にある老人施設「クローバー」のホールに、チェロとピアノ、バイオリンの三重奏の調べが響く。
「G線上のアリア」「アベ・マリア」「リベルタンゴ」「トロイメライ」。次には「荒城の月」「浜辺の歌」といったポピュラーな曲。会場のあちこちから大きな歌声があがり、お年寄りたちの口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
愛用のチェロ「プレセンラ」と一緒に20年余り。CDをリリースしたり、ラジオや映画などに出演したりしながら、母が代表を務めるボランティア団体「ハーモニー」の一員として中学生のときから老人ホームや病院、小中学校などで演奏活動を続けてきた。
チェロは人の声に一番近く、「癒しの音色」とも呼ばれる。お年寄りの施設でチェロの演奏をしたときのこと。認知症のお年寄りが昔に聞いた曲を口ずさんだり、五十肩に悩む男性の肩があがるようになったり。それは、音楽、そして、チェロという楽器の持つ力を目の当たりにした瞬間でもあった。
バイオリン奏者の父、ピアノ奏者の母のもとで幼いころから楽器に触れて育った。2歳のときからバイオリン、3歳のときからピアノを習ったが、自分にはどちらもしっくりこない。そんな中、7歳の時に自宅に来たチェリストが奏でる音色を耳にした。
「自分に合っているのは、この楽器だ」
チェロとの運命的な出会い。高校生も出場する札幌ジュニアチェロコンクールの優秀賞を14歳で受賞し、コンクールやオーディションに挑戦する高校生活を送った後、東京芸術大学に進学した。2001年には久石譲さんの初監督作品「Quartet カルテット」に出演。スクリーンに映し出された自分の姿を見たとき、人々に音の楽しさ、美しさを届けることができる醍醐味を再確認し、「どんな小さな会場であっても、聴く人すべてに常にベストな演奏を届けたい」と心に決めたという。
「自分はチェリストになるために生まれてきた」「私は生涯チェリストであり続ける」
自信を持ってそう語るいま、ボランティアで施設を巡り、半径5メートルにも満たないホールでの演奏会もまた、欠かすことのできない発表の舞台になっている。

《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=上野絵里・長峯亮
2009年09月20日(日)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ140号【市民活動にかける第二の人生 「企業の社会的責任」で支援の輪を】
日野市「CSRを促進する市民の会」副代表 吉野 吾郎さん(68歳)
「今年も充実した一年でした」
年賀状に近況報告を書くとき、この言葉が毎年の決まり文句のようになった。市民活動に打ち込むことで、第二の人生を瑞々しく過ごすことができている――心からそう思える情景が、今の生活の中にあふれているからだ。
「市民活動」への思いが芽生えたのは16年前、52歳のときだった。義母が認知症になって介護に苦労しているとき、近所の人たちが助けの手を差し伸べてくれた。日々の暮らしを営んでいくうえで、地域社会とのつながりが、いかに大切か。そのことを初めて実感させられた瞬間だった。銀行に勤め、システムエンジニアとして仕事一筋に生きてきた。しかし、リタイアする時は必ずやってくる。その後の人生を心豊かなものにしていくには、どういう生き方があるのだろう。「接点」がほとんどなかった地域社会に、どうしたら溶け込んでいくことができるのだろう。
考えた末に59歳で早期退社の道を選び、日野市内の複数の市民団体に所属し活動を始めた。それから10年余りが経過したいま、その中核として取り組んでいるのが、「CSRを促進する市民の会」だ。
市民活動に取り組む団体はいくつもあるが、資金不足から挫折していってしまうケースが少なくない。社会に目を転じると、「企業の社会的責任=CSR」が叫ばれている。それならば、その活動の一つとして、市民活動への支援、助成を多くの企業に働きかけていく運動を起こしてみたらどうか――多摩交流センター長を務めていた諸橋英明さんと意気投合し、2人でこの会を立ち上げた。
企業に賛同してもらえる具体的な活動として、「奥多摩西川花の里」代表・小林勤さんの協力を得て「奥多摩・エコツーリズム体験」を昨年秋から始めている。2回目となる今春は都内一円や神奈川、茨城などから120人が集まり、渓谷歩きや魚釣り、山菜摘みなどを楽しみながら、和やかな人の輪をここでまた一つ作ることができた。
「市民活動をもっと広めていくために支援のファンドや人材バンクを作りたい」
第二の人生にかける夢は、次から次へと広がっていく。

《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=大友らむね・高市由希帆・二俣友香
2009年8月20日(木)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ139号【「私の時間、売ります」ネット使って新しい働き方を】
「自分屋24」を主宰する 冨本 梨恵さん(32歳)
無限に広がるインターネット上に自分の名前と顔写真、プロフィール、それに当面のスケジュールやリアルタイムで今いる場所まで公開し、空いている時間に個人や企業から仕事を受け付ける。「自分屋24」の看板を掲げ、「時間」を切り売りする仕事を始めて半年余り。早くも各方面で注目を集め、テレビや雑誌、ネットでも広く取り上げられている。
仕事は「何でも屋」ではなく、新宿から電車で3時間、終電で自宅に帰れる地域から「面白そう」を基準に選ぶ。これまで請け負った仕事は、カメラマンから子守り、焼き鳥屋、音楽コンサートに同伴など20件を超え、そこで経験したことはすべて、「日報」としてホームページに載せている。報酬は依頼主が決め、時給800円、日給2万円、万年筆の現物支給など様々。ボランティアで臓器移植の募金活動を引き受けたこともある。
この仕事を始めたのは、以前に務めていたインターネット関係の会社を昨年9月に辞めてからだ。「何か面白いことはできないか」「社会に新たな生き方を提案してみたい」「多くの職業を体験して自らをもっと高めていきたい」。そんな思いがいくつか入り混じる中で「時間の切り売り」がひらめき、昨年12月、それを立ち上げた。
その後、ウェブデザイン会社に就職したが、「自分屋24」が社の企画としてそっくり採用され、今はそのバックアップを受けながら続けている。
日野市多摩平で生まれ育ったが、振り返ると、子どものころから「自分屋」だった。幼稚園の昼寝の時間には1人だけ寝ないで遊びに熱中した。小学校では暗記中心の勉強に自分らしさを表現できないもどかしさを感じていた。
美大でデザインを学び、社会に出てネットと出会った。そこで思いついたのが、「自分屋24」。この春、ネットのニュースで取り上げられた後、「自分もやってみたい」という問い合わせが殺到した。「企業でふつうに働くのも、時間の切り売り。重要なのは、自分で考え、自分をプロデュースする場がそこにあるかどうか」
「自分屋24」を通し、そのことを伝えていけたらと思っている。

《取材と記事》中央大学ジャーナリズムゼミ=上口宜子・高橋哲朗
2009年7月20日(月)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ138号【三重のハンディ背負い 天賦の音楽の才、開花】
「正秋バンド」リーダー 高橋 正秋さん(41歳)
生まれつき目が全く見えない。自閉症で知能の障害も抱える。三重のハンディを背負い、日野市旭が丘の社会福祉法人「東京光の家」で自立訓練を受けながら、園内の音楽クラブ「正秋バンド」のリーダーとしてピアノとボーカルを担当する。結成から20年。人々の心をストレートに揺さぶる独特の音の響きが口コミで伝わり、全国各地からコンサートの依頼が相次ぐ。10年前にはスウェーデンでの公演も果たした。
オリジナルの曲も持っている。
「今を生きて」
バンドの演奏を聴き、谷村新司さんが作詞、作曲してくれた作品だ。演奏の素晴らしさはプロのミュージシャンの間での評判を呼び、谷村さんや水前寺清子さん、さだまさしさんらとのジョイントコンサートも成功させている。
コンサートを前にした5月27日、光の家で研修中の公務員の人たちを前に練習の成果を披露した。「いきまーす」。開始の合図と同時に、同じく重い障害を抱える仲間たちが奏でるドラムやギター、シンセサイザーなどの響きに乗せ得意の曲目を次々に演奏してゆく。民謡「田植え歌」を組み込みアレンジした演歌「津軽平野」、「サライ」、「昴」。室内の空気がどっと押し寄せてくるような迫力に、聴き入っていた1人は「感銘の一言です」とうなった。
岩手で生まれ、幼いころから「天賦」といえる音楽の才を発揮してきた。3歳のときラジオから流れる曲を聴き、そのメロディーをハーモニカで奏でて周囲を驚かせた。オルガンの前に立つと、だれに教わることなく鍵盤の位置と音を知り、音律も自然と体で覚えた。
ピアノに触れたのは、16歳のとき光の家に入ってからだ。曲を聴くと直ちに再現してみせる並はずれた能力に職員が着目し、特技を伸ばす療法として音楽クラブのメンバーに加えた。一度覚えた曲は決して忘れず、レパートリーは数えきれない。
「自分の殻に閉じこもりがちだったのが、音楽の才能を発揮していく中で、周囲の人だけでなく聴衆とのコミュニケーションもとれるようになった」と光の家の田中亮治理事長。
9人のバンドメンバーのリーダーとして、今その表情は自信に満ちている。

《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=上野絵里・澤口真実・成田太昭
2009年6月20日(土)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ137号【馬との触れ合いで子どもたちの心を育む 小学校などを巡回、弾ける笑顔の輪】
「リトルホースと触れ合う会」 平島 素子さん(47歳)
日野市内の河川敷の一角で同僚の緑川まゆさん(30)=写真右=と2頭のリトルホースの世話を続けて5年になる。白い毛を持ったダンディと黒い毛のジャック。この2頭を連れて市内の保育所や幼稚園、小学校を巡回し、馬との触れ合いを通して子どもたちの情操を育む活動にあたっている。
2004年の春、リトルホースを盲導馬や介護馬として普及させることを目的に市内に設立されたNPO法人に就職、そこでオーストラリアから来たダンディとジャックに出会った。馬に接するのは初めてだったが、乗馬クラブに所属していたNPOの先輩職員に世話の仕方などを一から教わり、5年を経た今では2頭の目の輝きや表情を見て、時々の体調や機嫌の善し悪しを把握できるまでになった。この間、最も苦労したのは疝痛(せんつう)という腸の病気との闘いだった。馬は食べ過ぎやストレスなどが原因で便秘になりやすく、処置が遅れると腸閉塞を起こして命を落とすことも少なくない。ダンディは2回、ジャックも1回この病気にかかったが、緑川さんと一晩中つきっきりで看病にあたり、窮地を脱してきた。
NPO法人はその後、日野市から去ったが、市内の有志によって2007年1月に「リトルホースと触れ合う会」が発足。そこから保育所や幼稚園、小学校の巡回訪問を本格的に始め、その回数はいま、年間で100回近くにものぼっている。
訪問のときは、先生たちと綿密な打ち合わせをし、子どもたちには「馬と仲良くする3つの約束」を守ってもらっている。
@ 馬に話しかけるときは静かな優しい声で。
A 馬に近づくときは顔の前から。
B 馬のそばを通るときは静かに歩く。
ダンディとジャックの体に触ったり、引き綱を持って一緒に歩いたり、背中に乗ってグラウンドを回ったり。そのときに見せる子どもたちの弾けるような笑顔と2頭の馬の得意そうな表情。先生たちからはときに「あれから子どもたちが優しくなった」と言われる。馬と触れ合う中で、子どもたちが相手を気遣い、ルールを守る気持ちを育んでくれている。巡回訪問は2人にとって、そのことを実感できる現場である。

《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=上野絵里、佐藤麻理絵、成田太昭
2009年5月20日(水)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ136号【4オクターブの音色 200曲を超えるレパートリー 草笛を「楽器」として芸術のレベルに】
「枯れ草笛」奏法を編み出した 庄野 正幸さん(76歳)
ゆったりとした時間が流れる午後のひと時、日野市内を流れる川の岸辺に足を運んでは、口元にあてた1枚の葉を震わせ、バイオリンを思わせる美しい音を響かせる。枯らした草の葉で独特の奏法を編み出して15年。この奏法を芸術のレベルにまで引き上げたいと今も日々、その技に磨きをかけている。
普通の草笛の音域は1・5オクターブ、熟達した人でも2オクターブが限界だが、枯れ草笛は4オクターブと広い。童謡から歌謡曲、ポップス、さらにはクラシックまでジャンルを問わず曲を奏でることができ、そのレパートリーはすでに200曲を超えている。
とはいえ、この枯れ草笛は、「偶然」から生まれたものだった。
38年勤め上げた大手フィルム会社を定年退職し、多摩川沿いをサイクリングしていたとき、草笛を吹いている人に出会った。音色に引かれ草の葉を口にあててみたが、「ピー」という音さえ出ない。それでも諦めず練習に励んでいたある日、草笛に用いる葉の保管ケースを河川敷に置き忘れた。数週間後にそれを見つけたが、葉は日光にさらされ色が抜け落ちてしまっていた。何気なくそれを口に当て、息を吹きかけてみた。すると、簡単に音が出た。それどころか、左右に強く引っ張っても葉は切れず、思ってもいなかった高い音も出てきた。
「これは楽器になる」
会社に勤めていた当時、ずっと自分を支えてきた「研究への情熱」が、ここで再び頭をもたげた。以来、枯らした葉を左右に伸縮させたり、指先で葉の長さを調節したりしながら、独特の奏法を編み出すための研究に没頭。同時にコンピュータを使って枯れ草笛の音程を解析して図表化するなど、科学的な面からの考察も重ねてきた。
川の岸辺で枯れ草笛を吹いていると、道行く人がしばし、たたずむ。年に数回は市内の福祉施設でコンサートを開き、郷愁感の漂う音色を披露する。草笛を「楽器」の域に高め、そこから編み出した音の調べで多くの人が喜んでくれている――そのことを実感できるとき、何ともいえない幸福感を味わうことができるという。
(演奏法を知りたい方は「庄野正幸」でネット検索)

《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=高橋哲朗
2009年4月20日(月)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ135号【映像を通して子どもたちに自然と触れ合う機会を生き物を愛する心を育てたい】
日野の自然を撮り続ける 井上 録郎さん(58歳)
平日は東京学芸大学の学術情報部に勤め、週末は映像作家に変身する。レンズを向けるのは、日野市に広がる自然と風景だ。独学でプロ顔負けの腕前を習得し、昨年は市内の川や森に生息する魚や野鳥の姿を追った作品「生きものいっぱい ふるさと日野」を「心に残る故郷ビデオコンテスト」に出品、全国からの応募作518点の中で堂々の2位に輝いた。
子どものころから美術に強い関心があり、一時は彫刻家を目指したこともあった。ビデオカメラは24年前、生まれた長男の成長記録にと手にしたものだったが、ここでも持ち前の美術の才能が頭をもたげ、いつしか本格的な映像制作の道にのめりこんでいた。 この間、「教材」としたのは、葛飾北斎の絵だ。とくに「富嶽三十六景」の描き方はカメラの広角レンズや望遠レンズを使った手法に通じ、画面の構成を考えていくうえで格好の手本になったという。
撮影のときは20キロを超す機材を肩に多摩川や谷地川、百草の森などに出かけ、魚や野鳥などが見せる感動的な一瞬を狙う。そのために何時間でもカメラを構え、中腰のまま6時間、それを3日も続けてヤマベの産卵を映像に収めたこともある。
地元の自然を題材に、こうした活動を続ける視線の先にはいつも子どもたちの姿がある。これまでに収めた映像は80分テープで100巻ほど。その中から感動的な場面を選び編集しては市内の小学校で上映する一方、「大坂上中学校地区親父の会」代表も引き受け、子どもたちと一緒に市内の川や森などで自然と戯れるイベントなども続けてきた。
感受性の強い子どものときこそ自然の中で遊び、様々な生き物にじかに触れることがいかに大切かということを、八王子で生まれ育った自らの原体験から学びとった。
それならば、自然との触れ合いが少なくなった今の子どもたちに、まずは映像を通して自然への関心をかきたて、次に自然の中に連れ出して様々な生き物にじかに触れさせてあげよう――活動の根幹にはそうした思いがあり、そこで育った子どもたちがゆくゆくは、「心の豊かな町・日野」を創り上げて行く大きな力になってくれると信じている。

《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=澤口真実・高市由希帆
2009年3月20日(金)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ134号【発達障害を抱えた人たちに漆塗りの技能を広がる支援の輪】
認定NPO法人「工芸技能研究所」理事長 和田 伊都子さん(47歳)
自閉症やダウン症など発達障害を抱える人たちが社会で一本立ちしていけるように――そうした思いを込めて日野市落川に漆塗りと綴織の技能を教える「工芸技能研究所」を設立して7年。自ら漆塗り作業の現場に立ち、綴織の作業を担当する夫と二人三脚で、その指導にあたってきた。
漆塗りの技能を身につけていくうえで何より大切なのは、「続ける」ことにある。工程は下地塗り、中塗り、上塗りの3つに大別されるが、工程ごとに塗り・砥ぎ・艶出しなどの作業を何回も繰り返さなければならない。多くの人はそれで挫折していってしまうのだが、発達障害を抱えた人、中でも自閉症の人たちには、これが「適した作業」として受け入れられている。 自閉症の人は、些細なことにこだわったり、決まった通りの行動をとらないとパニックに陥ったりすることがある。多くの工程を、決められた手順で黙々とこなしていかなければならない漆塗りのような作業だと、その症状が逆に生かされ、集中力を高めながら作品づくりに取り組んでいけるからだ。
研究所には工芸技能養成所と工房の2つがあり、生徒は養成所の研修コース(4年)から専門コース(3年)に進み、ここを修了すると工房に移って受注した作品の制作活動に入る。現在は18歳から30歳代の12人の生徒が在籍し、うち8人が工房に立つ。
指導のモットーは「あせらず、ゆっくり」。出来ないことには決して叱らず、出来たことをほめる。おどおどしていた生徒も1年後には見違えるように明るくなり、自信に満ちた表情に変わってくる。
新宿で生まれ、中学1年のときに日野に移り住んだ。教師を目指して立教大学に進んだ後、東京学芸大学で特殊教育を学んだ。伝統工芸を教える専修学校の教員になり、そこで出会った講師からの勧めで漆塗りの技能を修得した。
伝統工芸の技に挑む生徒たちの姿を見て、いま多くの人たちが研究所の運営に支援の手を差し伸べてくれている。その気持ちに応えるためにも、「1人でも多くの生徒たちを職人の域にまで育てあげ、優れた作品を生み出していきたい」という。

《記事と写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=澤口真実・高市由希帆
2009年2月20日(金)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ133号【ドラマのロケを日野に呼ぼう 活動8年、市や学校も全面協力】
「NPO法人 日野映像支援隊」代表 中川 節子さん
小中学校や市営住宅、病院やモノレール。日野市内の馴染みの光景が最近、テレビの画面にしばしば登場するようになった。それは偶然というわけではなく、そこには、ドラマやCMなどのロケを誘致して地域の活性化を目指すフィルム・コミッション「日野映像支援隊」の活躍があった。その代表として8年。地道な活動が実り、映像制作会社からロケの依頼が殺到するほどの盛況振りを見せている。
「支援隊」の活動は制作会社にロケ地を紹介することから始まり、エキストラの募集やロケ現場での立ち会い、完成した作品の広報など多岐にわたる。
ロケ地の確保には行政の協力が欠かせない。当初、市の関心は低かったが、「町の活性化につながる」と市長にも直談判し、やがて学校などの公共施設を全面的に使用させてもらえるようになった。
ロケの後には「撮影機材で壁を傷つけられた」「教室の机や椅子の配置を変えられた」といった苦情が寄せられることがある。日野では少しのトラブルも起こさないよう自らロケ現場に立って目を光らせ、スタッフに現状復帰を徹底させた。そうした活動を重ねた結果、信頼が全体に広まり、ロケ地の学校の校長先生が自らエキストラとして撮影に参加してくれるまでになった。
金沢で育った。26歳のときに上京し映像スタッフとして働いた後、45歳で映像制作会社を立ち上げた。キー局でプロデューサーを務めた経験もある。
取材で日野市を訪れて気に入り、12年前に世田谷区から移ってきた。豊かな水と緑に恵まれた地で暮らす中、以前から抱いていた思いがよみがえった。「楽しさ一杯の人生を与えてくれた映像を使って社会や地域に何か恩返しをしたい」
映像は素人だが「日野が大好き」という8人が加わって結成された「支援隊」は、いま40人を数える。市民の主導で始まり、自治体とここまで強い協力態勢を築き上げたロケ誘致活動は全国的に珍しく、今後はこれを多摩地域全体にも広めていきたいと思っている。
「大きな夢がある。でも、今は言えない」
60代という年齢を感じさせない行動力。映像にかける情熱はまだ少しも衰えてはいない。

《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=高橋哲朗、二俣友香
2009年1月20日(火)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ132号【ミニ破魔弓で正月の風習を残したい
弓と矢の機能美を追い求めながら】
日野市の破魔弓工房「鈴藤」5代目 鈴木 藤隆さん(60歳)
男子が誕生した初正月に魔除けのお守りとして飾る破魔弓。江戸時代から伝わる郷土の風習を今の時代に残し、次の世代に受け継いでいきたい。そうした思いから団地の居間にも置けるミニサイズの破魔弓を考案し、工房ブランド「寿々登」(すずとう)の伝統を守りながら、多くの人に親しんでもらえる新たな作品作りに挑戦し続けている。
ミニ破魔弓の構想が浮んだのは、20年ほど前のことだ。第2次ベビーブームが過ぎて子どもの数が減っていく。核家族化が進んで昔ながらの民家は減り、地元に伝わる文化や風習への関心も薄れていく。そんな時代の流れの中で破魔弓の注文も目立って減少し、工房の先行きに強い危機感を抱いたことがきっかけだった。以来、試行錯誤を続けること5年。高さを30センチほどに縮小し、都会の一戸建てや団地などの居間に置けるサイズの作品を考えついた。
破魔弓といえば大きなもので2メートル、小さなものでも70センチはある。その半分以下というのは「破魔弓作りの常識を覆す」試みであり、部品が小さくなることで作業も格段に難しくなる。それでも、弓の滑り止めに籐(とう)を巻きつけ、矢には鳥の羽を使うなど本物の弓矢と同じ素材にこだわり、見えないところ、細かな工程の一つひとつに手を抜くことなく試作を続け、小さいながらも重厚さをそのまま残した製品に仕上げることができた。
物心ついた時から家業の破魔弓作りは生活の一部だった。大学3年生の時に先代の父親が亡くなってから本格的に工房に入り、10年ほどの下積みを経て後を継いだ。先代から受け継いだ作品の中には、現在の天皇陛下が誕生されたときに皇室に納めた「天覧品」モデルもある。
1シーズンに工房から出荷する破魔弓は約2000本を数え、その2割ほどをミニ破魔弓が占める。正月の風習を継承できていることに一つの満足感を抱きながら、弓と矢の本来の機能美をさらに追求していくべく、いまも古文書を開き、展示会にも足を運んでは無用な飾りをそぎ落とした「美」を体感し、その成果を新作モデルに生かしている。

《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=小野恵理・佐藤麻理絵
2009年1月1日(木)発行 ▲一覧に戻る▲
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ミニコミ132号【ご愛読感謝の集い ギター・ピアノコンサート】
12月19日(金)日野市民会館大ホールにおいて、ご愛読感謝の集い「ギターピアノコンサート」を開催しました。有料(500円)でしたが、約850名の方からお申込みがあり、ご来場者は683名様でした。ご来場になった皆様は、一足早いクリスマスコンサートを楽しまれたのではないかと思っています。

▲演奏前の音あわせをする演奏者▲

▲会場内はご来場の皆様で満席状態▲
2009年1月1日(木)発行 ▲一覧に戻る▲
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