ミニコミ


次回の発行日は 2012年月10日(月) 第170号 です。


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■地元記事バックナンバー■

ミニコミ169号【写真で日野の昔と今をつなぐ「まちかど写真館」から広がる夢】
ミニコミ168号【看護師として被災者に寄り添う避難所と日野をつなぐ架け橋に】

ミニコミ167号【子供たちの給食に地元の野菜を 日野の農家四十戸が結束】
ミニコミ166号【日野在住の外国人に日本語を教える世界との「交友の輪」広げたい】

ミニコミ165号【震災被災者の心に寄り添う美容を通し交流の輪を】

ミニコミ164号【図書館から「日野宿」の歴史を発信 「発見隊」の活動も軌道に】

ミニコミ164号【第11回 ひのよさこい祭 7/31(日)】
ミニコミ163号【懐かしい街が瓦礫の山に 復興まで手助けを】
ミニコミ162号【特別消火隊を率いて被災地に 「行方不明者を家族のもとに」】

ミニコミ161号【子どもたちに牛との触れ合いの場を 命の大切さ伝えたい】
ミニコミ160号【新聞記者として東日本大震災を伝える 大津波に続く放射線の恐怖】

ミニコミ159号【郷土玩具の魅力を広く伝えたい 自宅のレストランを展示場に】
ミニコミ158号【日野の地ビール「ブルーベリーエール」 販売の先頭に立って8年】

ミニコミ157号【日野を舞台にベストセラー 若者に「真摯さ」問いかけ】

ミニコミ156号【日野の子どもたちに豆腐作りを伝授 味へのこだわり、学校で「出前授業」】
ミニコミ155号【「オレンジ電車」の整備に30年 すべては「安定輸送」のために】

ミニコミ154号【中世インドネシア王国の船を復元 アジア大航海に挑む】

ミニコミ153号【「日野の伝統産業を次の時代に」 ほめるを信条に後継者を育てる】

ミニコミ152号【新選組を郷土の誇りに 大河続編の制作にも一役】

ミニコミ151号【甲子園まであと一歩 「考えさせる野球」で強豪校に】

ミニコミ150号【ミニコミ取材を財産に報道の世界へ 中央大学ジャーナリズムゼミ紹介】

ミニコミ149号【安全を究め、地球環境に優しい車を 次世代の電気自動車を日野から世界に】

ミニコミ148号【氷上のF1、世界一の美で走り抜けた 中央大南平寮から五輪の舞台に】

ミニコミ147号【団地全体で高齢者を支える態勢を 「長生きしてよかった」と思える団地に】

ミニコミ146号【人と犬との共生目指して ドッグランで伸び伸びと】

ミニコミ145号【日野で巣立ちニューヨークで開花 音楽は感性、「旋律に色が見える」】
ミニコミ144号【「美しいけん玉」を伝えたい 極めた道は「原点復帰」】

過去の記事ははこちら
 

ミニコミ169号【写真で日野の昔と今をつなぐ「まちかど写真館」から広がる夢】

写真家 
井上 博司さん(59歳)

 日野駅周辺を歩くと、思わず足を止めてしまう地点がいくつもある。目に飛び込んでくるのは、明治から大正、昭和へと至る時代、その時々に同じ場所で撮られたモノクロの写真。昔のたたずまい、その後の変容を一目で知ることができる。
 「日野宿発見隊」が地元の歴史を次に伝える活動の一つとして取り組む「まちかど写真館inひの」。この企画に最初から参加し、その中軸を担ってきた。
 幼いころから日野で育ち、小西六写真工業(現・コニカミノルタ)に勤める父親のカメラを手に小学四年のときから写真に親しんできた。
 東京造形大学に進み、卒業後は写真の専門職として東京都に就職、主に衛生局の医療実験などの写真撮影を担当した。その経験をもとに青年海外協力隊員としてモロッコに渡り、現地の厚生省で医療に使う写真の指導にも当たった。
 そうした仕事を重ねる中で、写真のジャンルの広さを肌で感じ、「作品としてよりも、その使われ方」に興味が沸いた。
 「写真の使われ方で街も変っていく」。この思いを持って「まちかど写真館」の企画にも立ち向かい、長い歳月で色あせた小さな写真も技術を駆使して修正し、新聞紙ほどの大きさにして屋外広告用パネルに刷り込むなど、「目立たせる」ための様々な工夫をこらしてきた。
 「街の中に『異物』を放り込む感覚。それで何が起こるかの実験」。家に閉じこもりがちだったお年寄りも外に出て写真パネルの前に集まり、昔と今で話の花を咲かせてもらえるのではないか。押し入れに眠っている古い写真を提供してもらえたら、展示する場所も市内全域に広げていくことができる。
 期待した通り、展示を始めて翌年の二〇〇九年には写真集を出版できるまで多くの写真が集まった。それがまた反響を呼んで写真の提供が相次ぎ、この春までに第二集を刊行することになった。
 日野とのつながりは、その後、多方面に広がっている。市観光協会のホームページ、地元産野菜で作られている学校給食のレポート、日野ケーブルテレビの広報紙「HinoVoice」などの構成、編集作業。
 そして、いま、写真の領域を超えて新たなアイデアが浮かぶ。
 学生スポーツのビッグイベント「箱根駅伝」には、日野と関わりの深い中央大学や帝京大学が出場する。多摩テック跡地に明治大学のグラウンドが移転してくる計画もある。レースの沿道で地元の大学名を入れた新撰組の幟(のぼり)を振って声援を送る。「正月の夢として、次はそんなことも考えたい」

 《中央大学ジャーナリズムゼミ=常谷奈緒・長井雅和・藤渕志保》

2012年1月20日(金)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ168号【看護師として被災者に寄り添う避難所と日野をつなぐ架け橋に】

日野市在住の看護師
高尾 奈津子さん(40歳)

 東日本大震災から1か月ほどした4月初め、宮城県の被災地に初めて立った。焼け焦げた臭い、陸地の奥まで打ち上げられた船、見渡す限り続く瓦礫の山。その惨状を目の当たりにしたとき、看護師としての職責が胸を突き上げた。
 気仙沼市で生まれ、太平洋を眺めながら子ども時代を過ごした。小学1年生のときに長期入院し、院内の学校で学んだ。多くの優しさに触れたその体験から看護師への道を志し、24歳のときに資格を取得、5年前まで都内の病院で医療の最前線に立ってきた。
 結婚したいまは白衣を脱いで朝日新聞百草園販売所で事務の仕事をしているが、大震災と大津波で故郷の町や村が壊滅したことを知り、すぐに看護師のボランティア団体に登録した。その後毎月、1週間から10日間の休暇を取って気仙沼市や石巻市、山元町などの避難所に入り、寝袋で仮眠をとりながら、被災者と生活をともにしてきた。
家族と仕事を奪われ、先の見えない暮らしの中で酒を飲み暴れ出す人。親を失い夜中に泣き出す子ども。傷の手当てや点滴など通常の医療に加え、心のケアも次第に求められるようになった。
 24時間、被災者とそうして触れ合う中で、外部には届かない現実を目にし、切実な声を耳にした。
4月にインフルエンザが流行し、6月には食中毒を発症する人が増えた。夏を迎えると衛生状態が悪化してハエが大量に発生し、冷房が効かない避難所では熱中症にかかる危険が高まった。しかし、感染予防のマスクや手袋、治療薬は不足し、殺虫剤や熱冷まし剤は届かない。
 日野市に戻り、勤務する新聞販売所が発行するミニコミ紙で、この現状を読者に報告した。すると、「被災地に行けないもどかしさを抱えています」「私たちで協力したい」といった声がいくつも寄せられた。そうした人たちと一緒に現地が求めている物資の支援をミニコミ紙で募ったところ、4日間で156人から殺虫剤403本、額に貼る熱冷まし剤150箱が集まり、「百草・落川・三沢・新井・石田地区有志一同」として被災地に送ることができた。
 また、11月には「冬に向かって何かお手伝いができれば」と120人から衣服や米、保存のきく食材などが集まった。東北にその物資を発送した後、11月末に日野市の主婦、加々見由美さん(64)、中塚祥子さん(30)と気仙沼市に行き、被災者に手渡すことができた。
 「短くても1年はこの活動を続けたい」
 日野の人々と肩を組んだ支援の取り組みは、日を追うごとに強まり、広がっている。

《中央大学ジャーナリズムゼミ=常谷奈緒・岡崎千聡》

2012年1月1日(日)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ167号【子供たちの給食に地元の野菜を 日野の農家四十戸が結束】

農 家
岸野 國男さん(六六歳)

 畑のあちこちに日野の子どもたちの顔が見える。自分が作ったものが子どもたちの成長の糧になっている――日々その喜びを実感しながら、鍬を振るい続けて二十八年。実績に裏打ちされた笑顔には、給食野菜農家としての誇りがみなぎっている。
 市立の小中学校二十五校の給食に地元産の野菜を使う取り組みは、「子どもたちが野菜を食べなくなった」という栄養士の声をきっかけに一九八三年から始まった。全国的にもあまり前例がない中で、市は市内の農家に協力を依頼し、その一人として白羽の矢が立てられた。
 市場に出すのと違い、学校給食に野菜を提供していくには、いくつもの難題があった。作付けの出来は天候に左右される。気まぐれな自然と向き合いながら、季節ごとに旬の野菜を育て、計画通り収穫して学校に届けていくことができるだろうか。手探り状態でのスタートだったが、市や学校と話し合い、試行錯誤を繰り返し、「日野方式」と呼ばれる現在のシステムを作り上げることができた。
 市の呼びかけに応じた農家四十戸を、堀之内、栄町、平山城址公園の三つの地域に分け、グループごとに年間の収穫計画を練って管内の学校に提出する。それをもとに毎月、学校側と打ち合わせて納品できる野菜の品目や量、納める日を決め、「新鮮」を第一に当日の朝か前夜に収穫して朝の八時に学校に届ける。
 突然の長雨や季節外れの気温にたたられ、店頭からの調達に急ぎ切り替えてもらったこともあった。しかし、いまでは二十七の品目を栽培し、給食で使う野菜の四分の一を出荷できるまでになった。
 学校との交流も年ごとに深まってきている。各学校での給食試食会には毎年招かれ、先生や栄養士、保護者たちと意見交換を重ねる。子どもたちを畑に迎え入れ、農作業を体験してもらう場を設けている農家もある。
 小学校に通う孫が「この野菜は、じいじが作った」と自慢していると聞くと、思わず顔がほころぶ。子どもたちとは顔なじみになり、道で会うと声をかけきてくれる。校長室に呼ばれ、「食材への親近感が生まれ、子どもたちが野菜を残さなくなった」と感謝の言葉をかけられたとき、嬉しさが体の底からこみあげてきた。
 堀之内に代々伝わる農家に生まれ、十八歳のときから畑を守ってきた。
 「市の支援があり、学校が私たちを信頼してくれたからこそ、ここまで続けてくることができた」。農家として出来る地域貢献として、学校給食での地元産野菜一〇〇パーセントを目指したいと話す。

《中央大学ジャーナリズムゼミ=佐宗日奈子・大友美里》

2011年11月20日(月)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ166号【日野在住の外国人に日本語を教える世界との「交友の輪」広げたい】

日野市国際交流協会交流部部長
杉山 忠行さん(46歳)

 毎週土曜日の午前、日野市の生活保健センターに世界のいろいろな国の人が集まってくる。市内に住む外国の人たちに市国際交流協会がボランティアで開いている日本語教室。その講師を務めて4年、マンツーマンの指導を通して世界との「交友の輪」を広げている。
 いま担当している生徒は、中国から7年前に来日して中央大学を卒業し、日本の企業に勤めているビジネスマンだ。日本語の能力を仕事でも通用するレベルに引き上げていくことを目標に毎週2時間。ビジネス書などを教材に報告書の作り方などを教え、時には「課外授業」としてバーベキューなどにも連れ出す。
 これまでに中国から来た3人、韓国から来た2人、計5人の指導にあたってきた。日本語を話せない人、日常会話はこなせる人など様々だったが、授業を進めていくうえで常に心掛けてきたことがある。
 一つは、教える側から押し付けるのではなく、生徒が学びたいことを知り、その希望に沿ってカリキュラムを組み立てていくこと。そのためにはお互いのコミュニケーションが欠かせないが、それによって、自分自身もまた、中国や韓国の言葉や文化を学ぶことができる。
 もう一つは、正しい日本語を一緒に学ぶ姿勢で臨み、「間違ったことは教えない」。
日本人でも助詞をあやふやなまま使っていたり、日本語特有の遠回しの表現を誤って解釈していたりすることがある。間違って教えてしまっていたことに気づいたときは、すぐにそれを伝え、正しい言葉使い、表現方法を理解してもらうようにしている。
 そうした授業を続けて半年から1年。日本の社会に溶け込み、そこで得られた成功体験を報告してくる。そのたびに、異なる文化の壁を超え、日本や日本人への誤解が払しょくされていくことを実感することができ、それが新たな活力源になっていると話す。
 3歳から日野で育った。大学時代は法曹を目指したが、企業に就職。その後、仕事の関係で中国語を学ぶ場として国際交流協会に入会し、3年前に交流部の部長に就いた。
 日野市に住いを登録している外国人の数は、20年前と比べて3倍余りも多い約2500人にのぼっている。その中には、言葉の壁の前で立ち止まってしまっている人、言葉は話せても日本人の友だちを持てないでいる人も少なくない。
 子どもからお年寄りまで市民から広く会員を募り、草の根の活動で外国の人との交流、交友の輪を広げていく。国際交流協会をその基地にしていきたいと考えている。

《中央大学ジャーナリズムゼミ=山田暢史・辻侑香里・後藤隆之》

2011年10月20日(木)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ165号【震災被災者の心に寄り添う美容を通し交流の輪を】

日野市居住の美容師
浅沼 章さん(54歳)

 東日本大震災の大津波で壊滅した宮城県女川町の中心街でただ1軒、「奇跡」としか表現できない姿で、残った理容室がある。6月の末、立川市で経営する美容室のスタッフ6人と女川に入り、この奇跡の店で被災者の髪のカットにあたった。
 大震災の3日目から募金活動を始めた。5月末には避難所になった福島県郡山市の「ビッグパレットふくしま」に駆けつけ、髪のカットを通して被災者の心を癒した。いまも立川の市営住宅に避難してきた被災者に半年間無料のチケットを配り、美容師の立場から支援と交流の輪を広げている。
 自然に恵まれた多摩川沿いの景色にひかれ、7年前に日野市に移り住んだ。店ではスタッフとの「フラットな関係」を心がけ、その意見に耳を傾ける。大震災の被災者への支援活動もスタッフからの提案がきっかけとなり、「途中でやめない」を条件に取り組むことを決めた。
 大津波から3か月が過ぎていたが、女川の惨状に立ちすくんだ。呼びかけもできない。車も流され店まで来ることもできない。そうした中で2日間、83人の髪をカットし、被災者の束の間の笑顔に触れることができた。
 「東京の美容師さんに髪を切ってもらえるなんて」。そう言って喜んでくれた人もいた。
 美容室を始めてからこれまで、「ホスピタリティー=人の心に寄り添う」をモットーに掲げ、スタッフたちを引っ張ってきた。
「誰かに心を寄り添えてもらえた人しか、他人に心を寄り添えることはできない。スタッフの心に寄り添っていけば、スタッフもお客様の心に寄り添って仕事をしてくれるようになる」
 女川の理容室で活動を終えた夜の懇親会。店を切り盛りしている奥さんから、こんなことを聞いた。
 「うちの主人は私に店を任せきりにして朝から晩までボランティアをしていた。でも、人のために尽くしていれば、それがいつか自分に戻ってくると思って何も言わなかったの」
 がれきの山の中に毅然と残った店に、改めて目を転じた。そのとき、奥さんの言葉の重さが身に染み、自分が掲げてきたモットーの確かさを感じたと話す。
支援活動を通じ多くの被災者と出会い、感謝の言葉と笑顔に接してきたことで、自分もスタッフも心のバランスを得ることができたとも思っている。
「ボランティアを自分たちの心のバランスを整えていく『バランティア』と位置付け、復興が実現する日まで活動を続けていきたい」
 女川の奇跡の店をもう一度訪ね、そのフロアに立つ準備をいま進めている。

《中央大学ジャーナリズムゼミ=品田知美・檀上舞》

2011年9月20日(火)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ164号【図書館から「日野宿」の歴史を発信 「発見隊」の活動も軌道に】

日野図書館長 渡辺 生子さん(60歳)

 日野市の前身ともなった「日野宿」は、江戸時代の初期に甲州街道五番目の宿場町として開かれた。図書館が主体となって、この歴史を市民に広く発信し、今に残る町並みや民家を次の時代に伝えていきたい。その思いから「日野宿発見隊」を結成して五年。小学生から八〇歳まで多くの「隊員」の先頭に立って活動を続けている。
 発見隊の活動は、二〇〇六年に市が打ち出した「日野宿再生事業」をきっかけにスタートした。
 この事業は、新撰組を率いた近藤勇や土方歳三たちが育った日野宿のたたずまいを保存し、それを中心に町興しを図っていこうというもので、そこには住宅の建築規制も盛り込まれていた。
すると、建築業者が連日のように規制対象となる家々を訪れ、規制がかかる前の建て替えを勧めて回った。そんな時、市内に住む建築士の人から寄せられた一言に目を開かされた。
「どう建て替えるかを市民が考える材料を提供していく。それは図書館の役割ではないのか」
当時、図書館業務の民間委託が各地で進められ、日野でも同じような話が持ち上がっていた。「公の文化施設である以上は、来館者を待つだけでなく、館長ら職員が街に出て街のため、市民のための情報を積極的に発信していく。そういう図書館にしていかなければいけない」
その実行部隊として考えたのが、「日野宿発見隊」。多くの市民がここに加わり、地元に残る何かを見つけだしてもらえたらと、この名前を思いついた。
いま取り組んでいる主な活動は、民家や蔵など江戸時代の建物などを巡って歴史を学ぶ「まち歩き」。かつて掲げられていた商家の屋号復活。戦前に撮られた写真を集めてコンピューターに保存し、パネルに作り替えて撮影された場所に掲示する「まちかど写真館」。それに、日野の歴史を絵本にまとめて刊行し、市内の小学校に配布する運動も進めている。
「まち歩き」は年に二回のペースで開催し、今年も六月二十一日に二十八人の市民が参加して市内に残る五つの蔵を回り、その持ち主から由来などを学んだ。
石川県金沢市で生まれ、中央大学を卒業後、日野市役所の職員に。図書館長になってからもカウンターに立ち来館者との会話を続ける。
日野図書館は全国で初めて書庫を市民に開架した実績を持つ。
「だからこそ、市民の皆さんとの信頼関係をさらに強めていきたい」。そして、「ここに移り住んできた人たちも故郷として誇りを持ってもらえるよう、日野の歴史や伝統、文化を発信していきたい」と語る。

 《中央大学ジャーナリズムゼミ=常谷奈緒・辻侑香里・長井雅和》

2011年8月20日(土)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ164号【第11回 ひのよさこい祭 7/31(日)】

 7月31日(日)、小雨の中、「第11回・ひのよさこい祭」が開催された。
 当日は43チームの皆さんが、午前11時30分から午後5時頃まで、第7公園演舞場と多摩平競演場で「流し踊り」を踊り、約1万人の人が集まり大変盛り上がっていた。
 また、会場内では模擬店も出展されていたが、特に目についたのは、豊田駅前通りで開催されていた「会津若松観光物産協会による特産品(桃・お菓子など)の販売」には、多くの市民の皆さんが集まっていた。 「ひのよさこい祭」は、本場高知さながらの「流し踊り」が特徴で、近隣の市では、交通規制などの関係で「流し踊り」はなかなか出来ないそうです。
 この祭りには、私たち日野新聞販売同業組合も協力しています。来年も楽しみである。


 

2011年8月20日(土)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ163号【懐かしい街が瓦礫の山に 復興まで手助けを】

日野から被災地のボランティア活動に参加した
勝又 洋樹さん(26歳)

 建ち並んでいた家屋は跡かたもなく消えてしまっている。賑わっていた街が、そっくりなくなっている。見渡す限り、「瓦礫の山」が続いている。その惨状を目の当たりにしたとき、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
 宮城県登米市で生まれ、大学に進むまでここで育った。三月十一日午後二時四十六分、日野市豊田の会社であの激震に遭い、震源が故郷の沖合と知って体が強張った。テレビの画面に目を移すと、懐かしい町や村が想像を絶する大津波に飲みこまれていた。
 「何かしなければ」。その思いが胸を突き上げた。「いまの自分に出来ること」としてボランティア活動に加わることにし、五月の初め、街が壊滅し、死者・行方不明者が一千人を超える宮城県南三陸町に入った。
 この町には父が勤めていた会社があり、太平洋に面したリアス式の美しい海岸は、子どものころに泳ぎや釣りで遊びまわった場所だった。
 現地には、全国から多くの人が駆けつけていた。四人から五人でチームを作り、初日は津波の被害から逃れた民家の屋根瓦をトタンに葺き替える作業に加わった。二日目は海岸に散乱したごみの撤去。三日目は救援物資を避難所に届ける手伝い。四日目は瓦礫の山に足を踏み入れ、写真を見つけ出す作業に当たった。
 泥にまみれてはいるが、家族そろって楽しそうに笑っている写真があった。「この人たちは無事でいるのだろうか」。それぞれの家族にとって、かけがえのない思い出の記録。その写真を手にするたびに、悲しみがこみ上げてきた。
 ボランティア活動は特別の意識を持った人たちがするものだと思っていた。被災地に入って活動したことで、その考えが変わった。「被災した人たちのために、少しでも力になりたい」。その思いさえあれば、誰もがその活動の輪に加わることができる。
 自然に恵まれた日野市に戻り、穏やかな暮らしを送る中で、大震災の記憶は薄れてしまいがちになる。しかし、復興の道のりは長い。それが実る時まで、家族や住まいを一瞬のうちに失った人々のことを忘れず、自分が出来る範囲でその手助けをしていきたいと思っている。

 東日本大震災で被災した市町村は、ボランティアで支援してくれる人たちに対し、それぞれの居住地の自治体でボランティア保険に加入した後、被災地に入ってもらえるよう要請している。日野市ボランティアセンターによると、大震災から三か月が過ぎ、この保険に加入した市民の数は二百八十六人にのぼっているという。

《中央大学ジャーナリズムゼミ=佐宗日奈子・辻侑香里・長井雅和》

2011年7月20日(水)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ162号【特別消火隊を率いて被災地に 「行方不明者を家族のもとに」】

日野消防署消防指令補
津野 崇さん(45歳)

 遥か先の海岸まで、がれきで埋まった泥の地面が続いている。3月11日のあの時刻、この地に建ち並んでいた住居や商店、工場は一瞬のうちに崩れ去り、ポツンと残ったビルも3階まで波に洗われている。
 「生物の気配を感じさせない、呼吸をするもの忘れてしまいそうな異様な静けさ」
 「海面が少し盛り上がる程度」と考えていた津波のイメージは根底から崩れ、その猛威に体が震えた。
 東日本大震災から6日後の3月17日未明に東京消防庁から指令を受け、日野消防署の特別消火中隊10人を率いて18日夜、宮城県気仙沼市の被災地に入った。
 昼間は鹿折(ししおり)、内の脇(ないのわき)の2つ地区を捜索し、行方不明になっている人を見つけ出す。夜間は、がれきに目を光らせ、そこからの出火を食い止める。
 鹿折は観光地として、内の脇地区は工場地帯として、多くの人で賑わっていた地区だ。助かった住民から建物のあった場所を聞き、2人1組となってそこに向かう。「行方の分からない人を1人でも多く探し出し、家族のもとに帰してあげたい」
 漂う空気から近くに遺体が眠っているのが分かる。重機はまだ届いていない。隊員の無事を常に確かめながら、背丈の上まで堆積したがれきを手作業で取り除き、泥を掘り続けた。
 しかし、人が生活していた痕跡を見つけ出すことさえ難しい。
水道は止まり、睡眠はテントの中で1日2時間。時折、大きな余震が襲い、雪も舞う中、日を追うごとに隊員たちの焦りは募り、ストレスは倍加した。
 6日後に現地を離れるまで、その状況は続いたが、東京消防庁からはこのとき25隊313人が派遣され、全体として数百人の行方不明者を見つけ出すことができた。
「自然がひとたび猛り狂ったとき、人はいかに無力か」。いま胸に去来するのは、その思いだ。
 大学時代、住んでいたアパートが火事になり、煙で意識が遠のき始めたとき消防士に救出された。その体験が動機の一つともなって消防士を志し、目黒、本田のレスキュー隊、赤坂の化学機動中隊などを経て、昨年10月に日野消防署に配属された。
 いま自らに課しているテーマは、「多摩地区の特性を早くつかむ」「気仙沼での体験も踏まえて若い隊員たちを指導し、日野の防災を担っていく人材を育成していく」
そして、「生涯一消防士を貫く」。職を退く日まで、非常のときには呼吸器を背負って現場に入り、炎と煙の中から1人でも多くの被災者を救い出すことだと言う。

《中央大学ジャーナリズムゼミ=上野絵里・追分友里・西岡瞳》

2011年6月20日(月)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ161号【子どもたちに牛との触れ合いの場を 命の大切さ伝えたい】

日野市で唯一の牧場
「百草ファーム」を経営する
大木 聡さん(48歳)

 「みんなが飲んでいる牛乳は誰のものなのか知っているかな。本当は子牛のためのものなんだよ。それを人にくれているのだから、大切にしないといけないよ」
 日野市内にただ一つ残った牧場として、地元の小学生たちに酪農の実地教育を始めて10年になる。秋になると、市内の小学校から見学の依頼を受け、800人から1000人ほどの子供たちを迎え入れてきた。
 見学は80人ずつに分け、まずは子牛に触れさせることから始める。次に10頭の親牛を観察した後、勉強会を開く。そこでは一方的に説明するのではなく、「聞きたいこと、あるかな」と問いかけることにしている。
 「牛の寿命は」
 「どんな物を食べ、どれくらいの量の乳を出すの」
 子どもたちからは競い合うように手が挙がる。
 見学会で最も伝えたいと思っていることは、「命の大切さ」だ。生後間もない子牛に触れ、その子牛のために親牛が沢山の乳を出している。そのことを知るうちに子どもたちの表情は真剣さを増し、帰るときには牛を見る目が変わっているという。
 家は400年以上前から代々続いてきた農家だ。東京オリンピックの前、学校給食に牛乳を普及させる政府の酪農推進策に応じて乳牛の飼育を始めた。10年前にサラリーマンを辞めて父から仕事を受け継ぎ、以来、優良牛を作りだすことに精魂を傾けてきた。
 乳牛のコンクールである春と秋の共進会には毎回出品。最初は最下位だったが、東京農業大学で学んだ酪農の知識と技術、上位入賞した酪農家から学んだ飼育法も取り入れて改良を重ね、昨年秋には東京地区で優勝を果たした。
 周囲に住宅が立ち並んでいる中で、牧場を続けていくには様々な工夫と努力がいる。臭いをどう克服するか。コーヒー滓やおがくずを敷いたり、微生物を使った消臭物質を撒いたり。こうした対策が効果を発揮し、見学に来た子どもたちから「臭い」という声がまったく出ないほど改善することができた。
 交配を考えて子牛を出産し、成牛に育てコンクールに出すまでには5年がかりの作業となる。酪農を取り巻く状況は厳しさを増し、収入は会社勤めのときの半分に減ってしまっている。
 しかし、「生きている牛からパワーをもらえる今の仕事の方が、ずっと充実している」。
これからの夢は、どこで出しても胸を張れる優良牛で牛舎をいっぱいにすること。酪農を通した社会見学の場をこれからも子どもたちに提供していくこと。それが、酪農の生きてきた自分に出来る社会への一つの貢献だと思っている。

《中央大学ジャーナリズゼミ=追分友里》

2011年5月20日(金)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ160号【新聞記者として東日本大震災を伝える 大津波に続く放射線の恐怖】

中央大学ジャーナリズムゼミ卒業生
神保 圭作記者(25歳)

 3月11日午後2時46分、東北・三陸沖で発生した巨大地震、大津波によって多くの人々の命、財産が奪われました。
 私たちが在籍する中央大学ジャーナリズムゼミで学び、毎日新聞社に08年4月に入社しプロの新聞記者として活躍している神保圭作先輩が、福島県南相馬市でこの大津波に遭い、東京電力福島第一原子力発電所からの放射性物質に曝されながら、いま被災地で取材・報道を続けています。
 その神保先輩がこのミニコミ誌の読者の皆様に、現地の状況をお知らせしたいと記事を送ってきてくれました。《中央大学ジャーナリズムゼミ》

 福島県飯舘村の健康福祉施設を取材中に、あの大地震は起きました。
縦揺れと横揺れが交互に襲い、浴槽は波立ち大量の湯が外に放り投げられる。
大津波警戒警報が発令される中、津波襲来の現場を撮影しようと南相馬市に引き返したとき、「津波が来る、逃げろー」と作業着姿の男性が叫びながら走ってくるのが見えました。
 男性の後ろ200メートルほど先にある防波堤の上に大きな水しぶきが立ち、押し寄せる海水で電柱3本がなぎ倒されている。「ドーッ」という轟音。押し寄せる濁流。
 男性を後部座席に乗せ車をUターンさせてアクセルを踏み込み、3階建ての南相馬警察署まで走り、屋上に駆け上がりました。
 数分前までいた地点は津波に洗われ、民家の大半が倒壊し泥だらけの更地と化してしまっている。自宅を一瞬のうちに奪われた住民は、変わり果て景色を呆然と眺めている。
 大津波。その恐怖は、僕の想像をはるかに超える凄まじいものでした。
 福島支局南相馬通信部に赴任して1年半。取材で知り合ったほとんどの人が、親族、親類を失いました。孫2人の安否が気がかりで食事をとろうとしない老夫婦。両親、兄弟を失い泣きやまない小学生。兄が亡くなったことを知らされないまま折り鶴を折り続ける6歳の女の子。重油が足らず火葬することも出来ないと僕の手を握って泣いた男性。
 これに追い打ちをかける原発からの放射性物質の放出。避難指示が出ている中で飼育している牛のことを心配し、検問のない山道を抜けて避難所から自宅に通う酪農家もいます。
 学生時代、このミニコミ誌の取材で多くのことを学ばせていただきました。その体験を原点に、胸の被ばく線量計をチェックしながら、記者としてこれからも被災地の現状をお伝えしていきます。
 「がんばれ東北」「がんばれ日本」
 日野市の皆様の被災者への暖かいご支援をお願いいたします。

2011年4月20日(水)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ159号【郷土玩具の魅力を広く伝えたい 自宅のレストランを展示場に】

「茶処ほっと屋」オーナー 齋藤 隆雄さん(67歳)

 店に一歩入ると、そこは人形たちの住む世界だ。
 お雛様から相撲取りまで、戸棚には様々な人形がびっしりと並ぶ。床の間にちょこんと座っているのは、今年の年賀切手のモデルになった福島・西会津のうさぎの張り子人形だ。
 郷土玩具に初めて触れたのは42年前、長女が誕生したときだった。友人が出生祝いとして金沢に伝わるだるま、「八幡起き上がり」を贈ってくれた。
 それから4半世紀、青梅で土鈴を展示・販売している店を偶然見つけ、日本の各地で脈々と伝承されてきた郷土玩具の魅力に改めて衝撃を受けた。
 同じ土鈴でも物によって異なる多彩なデザインと色。そして、種類の豊富さ。
 「こんなに素晴らしい世界があるなんて」
 以来、全国の玩具制作者を訪ねて収集を続け、その数はいま1600を超える。その中には200年ほど前に作られた人形もある。
 「この奥深い魅力を多くの人に知ってもらいたい」
 2006年7月に日野市日野の自宅でレストラン「茶処ほっと屋」を開業し、そこで玩具の展示を始めた。
 店を開くのは週3日、午前11時半から午後4時まで。1日の客数は10人までに限定している。それでも、年間の来客は800人を数える。近所や多摩地域からばかりでなく、静岡からやって来るリピーターもいるという。
 展示する玩具は年に数回、季節に合わせて入れ替えるが、基本的には気の向くままに決める。時には大切にしまってある人形たちが夢に現れる。「外に出たいと言うので。だから、出してあげるんです」
 これまで熱心に集めてきたものの中に、「饅頭食い」という子どもの人形がある。父母どちらが好きかと聞かれた子が、饅頭を二つに割って「どちらがおいしいか」と切り返した逸話から作られたという。子どもが賢く育つように。そんな願いが込められている。
 「郷土玩具にはそれぞれ由来があり、意味がある。だからこそ後世に残っている」
 その一方で、玩具づくり現場の実情は苦しい。後継ぎは不足し、専業では生活ができない人もいる。年配の職人さんがひとり、あばら家のような工房で制作しているところも少なくない。
 初めは3年で店をたたむつもりだった。それを5年に延ばした。その「期限」が間もなくやってくる。しかし、「作品を誰かが引き取らなければ、伝統文化が消えていってしまう」。
店を開く日を減らしたり時間を短くしたり、なんとか工夫して「ほっと屋」を続けていきたい。それは、手作りの家庭料理で店を支えてきた妻の順子さんの思いでもある。

《中央大学ジャーナリズムゼミ=品田知美・柴山之彦・高橋哲朗》

2011年3月20日(日)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ158号【日野の地ビール「ブルーベリーエール」 販売の先頭に立って8年】

八南酒販協同組合理事長
井上 政勝さん(69歳)

 グラスに注ぐと淡い紫色の表面にきめ細かな泡がふんわりと浮かび上がる。口に含むとブルーベリーの甘酸っぱさが広がり、後味にビールのほろ苦さが加わる。
 日野産ブルーベリーを使った発泡酒「ブルーベリーエール」。日野市からこの販売総責任者を任されて8年、生産量の決定、宣伝など販売部門の全てをとり仕切ってきた。
 このプロジェクトの始まりは2003年に遡る。市は当時、市制40周年を記念して新しい特産品の開発を進めていた。ブルーベリーの摘み取り農園が市内に増えてきたころでもある。市はその栽培農家の支援も兼ねてブルーベリーを使った酒の製品化を企画し、川越市の地ビールメーカーに製造を依頼した。
 それを市販ルートに乗せるには、酒税法の免許が必要となる。日野に酒店を構え、小売酒販組合の支部長をしていた関係で、この販売を引き受けることになった。
その時すでに3種類の試作品が出来ていた。しかし、「酒販売のプロ」として、もうひとつピンとこない。
 「市が開発費を投じ、農商が連携して売り出す以上、市民が誇れる地ビールにしたい」
酒販組合の仲間と一緒にメーカーまで出向き、味と香りを確かめた。市や農家の意見も聞き、メーカーに助言した。
 製造工程は基本的にビールと同じだが、麦芽などの原料を混ぜ合わせる段階で1本(330ミリリットル)当たり約40グラムのブルーベリーを加える。そのブルーベリーは、色鮮やかで大きな実が特徴の日野産、しかも無農薬で作ったものだけを用いる。さらに、ビール酵母をろ過せず、整腸作用のある成分を生かすことで健康にも優しい酒に仕上げる。
 その結果、賞味期限は4か月と短く、コストも割高にはなったが、「自信作」と胸を張れる製品に仕上がった。売り上げも年ごとに伸び、08年には年1万本の大台に乗せることができた。
 その後、安価な発泡酒が次々に売り出された。また、ブルーベリーの販売が伸び、原料に回す分が足りず製造量を減らしたこともあって、売り上げは落ち込んではいる。
それでも、「特産地酒の『ともし火』は消さない」と、いま新たな闘志を燃やす。
 神奈川県秦野市に生まれ、27歳のときに酒店の経営を思いたち、日野に店を開いた。
 ブルーベリーエールの普及は、「42年、店を続けてくることができた地元の方への恩返し」の一つ。これまでは市内の酒屋9店だけで販売してきたが、今後はネット通販での全国展開など販路の拡大に向けた新たな策も考えたいという。

《中央大学ジャーナリズムゼミ=後藤隆之・佐宗日奈子・高橋哲朗》

2011年2月20日(日)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ157号【日野を舞台にベストセラー 若者に「真摯さ」問いかけ】

「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジマント』を読んだら」
著者 岩崎 夏海さん(42歳)

 「おかげさまで200万部突破!」
 年も押し迫った昨年12月20日、「目標達成」を知らせる全面広告が新聞紙面を飾った。
 都立高校野球部の女子マネージャー川島みなみが、経済学者・ドラッカーの名著『マネジメント』に記された数々の教えを応用し、部が直面する問題を解決してチーム力を引き上げ、激戦の西東京大会を勝ち抜いて夢の甲子園出場を果たす。
 昨年のベストセラーとなり、今年3月にはNHKでアニメ化される青春ドラマ『もしドラ』は、日野市を舞台に作りあげた小説だった。
 表紙カバーのイラストには浅川の光景を描き、主人公の球児たちが通う高校は自分の学び舎である程久保小学校(現・夢が丘小学校)の位置に据えた。親友の入院先も市内に実在する病院をイメージし、球児たちが指導を受ける大学の野球部は中央大学野球部をモデルにした。
 三歳から十一歳まで日野市南平の団地で育った。小学3年生から地元の少年野球チーム「みつい台(現・夢が丘ユニコンズ)」に所属し、キャッチャーとして白球を追った。浅川の河川敷でキャッチボールをした思い出。放し飼いされた多摩動物園のクジャクが団地裏に姿を見せたときの驚き。『もしドラ』の執筆を進める時にまず浮かんだのが、鮮明に残るそうした「心の中の原風景」だったと言う。
 作家になろうと思ったのは20歳の時だった。長編『百年の孤独』を読み、面白さに度肝を抜かれた。「いつか匹敵するような小説を書きたい」。東京芸大を卒業後、専攻した建築の道には進まず、おニャン子クラブなどのプロデュースをしていた秋元康さんの下で放送作家として働き始めた。
 その傍ら、小説を書いては出版社に応募したが、どこからも断られた。『もしドラ』も初めは単行本ではなく、インターネットのブログで公開していた作品だった。それが、出版社の目にとまり、処女作として世に送り出されると、瞬く間にブームを巻き起こした。
 ドラッカーは「経営の神様」とも言われ、多くの財界人もファンの列に名を連ねる。
 『もしドラ』の中で、主人公のみなみが著書『マネジメント』の一節を読み、電撃に打たれたようなショックを覚えて涙を流す場面がある。
 「(マネージャーには)根本的な資質が必要である。真摯さである」
 みなみの反応は、自らが抱いた感動でもあった。
 自分の作品が認められない時代が続いても、信念を曲げずに書き続けてきた。そのことが今ようやく、ドラッカーに評価されたと思っている。

《中央大学ジャーナリズムゼミ=大友らむね・佐藤麻理絵》

2011年1月20日(木)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ156号【日野の子どもたちに豆腐作りを伝授 味へのこだわり、学校で「出前授業」】

とうふ処三河屋店主 吉野 隆雄さん(72)

 「みんなで気持ちをひとつにしてやり遂げようね。そうじゃないと、おいしくできないよ」
 この秋の1日。日野市立日野第八小学校の家庭科教室に集まった4年4組の児童に優しく語りかけ、豆腐づくりの授業が始まった。
 学校で子どもたちに豆腐の作り方を教えて、すでに8年になる。取引先の生協から「食育」の一環として依頼されたのがきっかけだったが、その後は学校から直接頼まれる機会も増え、いまは日野市内の6つの小中学校で「出前授業」を続けている。
 ミキサーにかけて液状になった大豆を煮て豆乳にする。それを絞り、「にがり」を注いでかき混ぜ、おぼろ状にした後、箱型に流し込んで豆腐に仕上げていく。工程の一つひとつに微妙な案配が求められるが、その全てを子どもたちの手で行わせる。
 力が足りなくて豆乳をうまく絞れない。にがりの配分が分からず手が止まってしまう。教室で見守っている母親が、思わず手を貸そうとする。そんなときはそっと近づき「お子さんにやらせてくださいね」と声をかける。
「自分の手でやり遂げてこそ達成感が得られる。その経験が子どもの心に残っていくのです」
 作業を終えるまでの1時間、6つに分けた班に目を注ぎ、こまめに声をかけて回る。
「にがりを入れたのは誰かな」。1人が手をあげる。試食した後、「上手だ」と手を握り、にっこり笑って「合格」。教室に歓声が弾けた。
 授業で常に考えているのは、子どもたちの「心の成長」を手助けしていくことだ。そのために、豆腐作りを終えた後の15分は「総括」の時間にあてる。日野市三沢に店を構えて40年、「おいしい豆腐」を作り出すことに精魂を傾けてきた自らの歩みを話している。
 原料の大豆はすべて国産、海水から塩を取り出した後に残るにがりは天然の伊豆大島産と決めている。大豆を煮る時に灰汁がでるが、それを消す消泡剤は一切使わない。
 都市化とともに大型店が立ち並び、個人商店が次々に姿を消してきた。市内の豆腐屋も減っている中で、「味へのこだわり」を貫き、看板を掲げ続けてきた。生協や学校から依頼が絶えないのも、このこだわりが「食育にぴったり」と白羽の矢を立てられたからだ。
 仕事の合間には大型バイクに跨る。8年前にはハーレー・ダビッドソンを操り、ニューヨークからロサンゼルスまでアメリカ大陸を横断した。
 「子どもたちに囲まれていると腰の痛みも忘れてしまう」
目指しているのは、「ナンバー1の豆腐屋になること」という。

《中央大学ジャーナリズムゼミ=坂井悠紀子・高市由希帆・長井雅和・原島由美》

2011年1月1日(土)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ155号【「オレンジ電車」の整備に30年 すべては「安定輸送」のために】

JR東日本豊田車両センター 車両技術主任 小俣 伸一さん(55歳)

 「さようならー」「ありがとうー」
 鉄道ファンや子どもたちの感謝の言葉は、車両が見えなくなるまで止まなかった。
 多摩と都心を結ぶ大動脈の中央線を約30年にわたって走り続け、「オレンジ電車」と親しまれた201系電車のラストラン。
10月17日午前10時19分に豊田駅を出発、終着の松本駅で鉄路に別れを告げ、新型のステンレス製車両にその重責を譲った。
 201系が長年「家」としてきたのが、豊田駅に近い日野市東平山の豊田車両センターだった。約150人の社員が詰め、東京ドーム2個分の敷地を持つ広大な基地だ。
 高校卒業後、73年に旧国鉄に入り、センターで車両整備に携わって37年。その多くを201系と共に過ごしてきた。
 この車両が豊田にやってきたのは、オイルショック直後の81年のことだ。当時の時代状況の中で、ブレーキなどに新システムを採用し、省エネを徹底して追求した車両だったが、整備にあたっては時に戸惑い、手を焼くこともあった。
 中央線を走り始めて2年から3年がたったある日、ブレーキをかけると車体が揺れるトラブルが起きた。そのときは原因が分からず、3か月も悩み続けた。しかし、振り返ってみると、そうした経験の一つひとつが、整備の腕を進化させる貴重な「糧」になってくれていた。
 車両が故障したとき、どこをどう直すのかは、経験則で見抜いていくしかない。どこを点検したか、どの部品を交換したか。車両ごとにノートに細かく記録した。同じような故障が起きたら読み返し、修理が終われば、それを書き加える。その地道な繰り返しがいま、「経験値」として手元に数多く蓄積されている。
 2年ほど前、廃車となる旧型電車が八王子付近で突然、立往生した。普段は接していない電車だったが、すぐに現場にかけつけて原因を探り当て、ダイヤへの影響を最小限にとどめた。「これも経験のなせる業」と同僚たちも感嘆した。
 現在は「車両技術主任」として、修理や部品の取り換えなど様々な場面で新人の指導にも当たっている。方針は「人に聞く前に、自分で調べろ」。
 「私は勉強するきっかけを与えるだけ。結局は自分で学んでいくしかないのです」
 車両に近寄ると、モーターの高熱で汗だくになる。酷暑の今夏は体調を崩す人も出た。
 その職場でいつも考えていることは、「故障に強く、トラブルは少なく。すべての仕事は『安定輸送』のために」。
 新型車両をいかに滞りなく運行させていくか。201系が去ったいま、視線はすでにそこに向いている。

 《中央大学ジャーナリズムゼミ=追分友里・高橋哲朗》

2010年11月20日(土)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ154号【中世インドネシア王国の船を復元 アジア大航海に挑む】

「日本マジャパヒト協会」事務局長 工藤 尚徳さん(55歳)

 7月4日、インドネシア・ジャカルタの港。全長20メートル、幅4メートルの木造帆船が高々と帆を掲げ、大海へと船出した。 
 13世紀から16世紀にジャワ島を中心に栄えたマジャパヒト王国。その時代の船を復元した「スピリット・マジャパヒト号」だ。日本人3人を含む13人が乗り組み、沖縄や東京、上海などアジア7カ国の都市をめぐる。 
 日野市多摩平に住み、主催する「日本マジャパヒト協会」の日本側総責任者として、この大航海を支える。  
 インドネシアに仕事で出張した数年前、マジャパヒト文明の復興に取り組む1人の日本人男性に出会った。現地で真珠の養殖に取り組む高城芳秋さん。 
 マジャパヒトは東南アジアの歴史の上でインド文化の影響を受けた最後の王国とされているが、知名度は低く遺跡も放置されたままになっている。その発掘を支援し、日本とインドネシアの文化交流にも役立てたい。 
 高城さんの夢に共鳴し、2年前に友人ら6人で協会を設立。その活動の一つとして、当時の帆船の復元を計画し、昨年末から半年をかけて姿を蘇らせた。 
 この大航海には、自らが抱き続けてきた沖縄の人たちへの思いも秘められている。 
 史実によれば、琉球王国から6回にわたってマジャパヒト王国に貿易船が派遣された。それから500年。「滅び去った王国からの時空を超えた『返礼』。そうした意味を込めて沖縄の港に入りたい」 
 第2次大戦の末期、沖縄は激しい地上戦に巻き込まれ、今も基地問題に揺れている。「沖縄の人たちの犠牲のもとに、私たちの平和な暮らしがある」 
 船にはインドネシア海軍の現役将校も乗り、フィリピン・マニラまで航跡を伸ばした。その後、台風などの影響を受け、沖縄入港は来年春以降に持ち越されたが、この「返礼」が実現したとき、心が和むロマンとして沖縄の人たちに喜んでもらえるのではないか。それが延びた分だけ、夢は膨らむ。 
 寄港地との折衝や挨拶、マジャパヒト王国についてのセミナー開催。日本でかかる経費はほとんど持ち出しだ。 日本の寄港地では地元の子どもたちに船を開放する。「大海原を乗り越えてきた船体に触れることで、先人たちの苦労を知り、アジアの国々との結びつきの深さを理解してもらいたい」 
 大分県の臨済宗の寺に生まれた。会計の仕事を志して上京し、多摩川と緑豊かな環境にひかれて日野に住居を構えた。「とにかく空気がおいしい。日野の自然が疲れた心と体を癒し、明日への活力を生み出してくれます」 

 

《中央大学ジャーナリズムゼミ=後藤隆之・坂井悠紀子・高橋哲朗》

2010年10月20日(水)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ153号【「日野の伝統産業を次の時代に」 ほめるを信条に後継者を育てる】

目籠作りを伝える 山本 恭三さん(85歳)

 薄く削った竹の皮を六角形に編み、それをいくつも連ねて様々な形の籠へと仕上げていく。日野市など多摩丘陵に広がる農家の間で150年ほど前から内職として営まれてきた目籠(めかい)作りの技法。都市化の波の中で、ただ1人の承継者となったいま、日野市郷土資料館のサークルに集う人たちに、この技を伝え続けている。
 50年ほど前から日野市に移り住み、20年ほど前に目籠に出会った。地元の伝統産業を復活させようと市の公民館が開催した「目籠講座」だ。竹の採取から完成まで全工程を1人でやり抜く難しさ、作品が完成したときの達成感に魅入られ、以来、定年後に歩む「第二の人生」の生きがいになった。
 材料は多摩丘陵に広く自生している篠竹、「あずまねざさ」とも呼ばれる笹の一種だ。茎を伸ばし始めて1年未満、初冬のころに採取し、専用の包丁を使って4つに割る。その一つひとつを丁寧に伸ばし、長さ60センチから70センチ、幅3ミリ、厚さ0.5ミリのヒネと呼ぶ薄い皮にした後、籠の底の真ん中部分から六角形に編み始め、それを作品になるまで増やしていく。
 均一なヒネ、六角の形は簡単には作り出せない。参加者のほとんどが1回の講座で音をあげてしまう中で、2年連続で講座に通い詰めた。その粘りと熱心さ、それに腕の良さを買われ、15年ほど前から教える側に回り、5年前からは市の郷土資料館のサークル「竹取クラブ」が、その技の伝授の場となった。
 これまで取り組んだ作品は、野菜などを盛る大小の籠から魚を入れる籠、佃煮入れ、おしぼり入れ、行灯など様々だ。作品は歳月が経過するごとに青さが抜け、20年もすると見事な飴色に変わる。
 はるか昔に使われ光沢を増した籠を見つけたとき、その復元に挑んでいるとき、「歴史をつないでいるという気持ちなる」。
講師としての信条は、「やってみて、やらせてみせて、もう一度。ほめてやらねば技は覚えず」
 「根気を必要とする作業だけに、ほめて喜びを味わってもらうことが大切」。これは、自らが初めて講座に参加した時の体験から得た教えでもある。
それでも、以前に公民館で教えていたとき、1年間の講座を最後まで続けられたのは1人か2人だった。「竹取クラブ」の参加者はいま、女性を中心に10人ほどを数えるが、始めからずっと続けている人は少ない。
 「後継者、指導者が早く育ってほしい。それが一番の願い」。そう語る表情には、年齢を感じさせない若さがある。

《中央大学ジャーナリズムゼミ=追分友里・佐藤百合》

2010年9月20日(月)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ152号【新選組を郷土の誇りに 大河続編の制作にも一役】

日野新選組同好会「名誉局長」 峯岸 弘行さん(49歳)

 「えいえいおーっ!」
 威勢のよい勝ちどきとともに、おなじみの青羽織をまとった老若男女が一斉に拳を上げて日野市内を練り歩いた。5月初旬に開催された「ひの新選組まつり」。全国から約600人の新選組ファンも集う中、副長・土方歳三の生誕地代表として日野新選組同好会が今年もパレードを盛り上げた。
 いまはこの同好会の「名誉局長」だが、局長(代表)を務めていた5年前までは、「局長・近藤勇こと峯岸弘行」と名乗っていた。会員たちも局長の面接を受けて「正隊士」となり、実在した新選組隊士を名乗ることができる。
 その会員は現在、70代のお年寄りから女子大生、高校生まで40人。うち3分の2が女性だ。主な活動は、新選組に関する勉強会、隊士の子孫や研究者による講演会、それに史跡の見学会。ときには、土方が生涯を閉じた函館や新選組が活躍した京都などに「遠征」して元隊士の慰霊をしたり、各地のパレードに参加して日野をPRしたりする。
 新選組との出会いは、中央大学1年生のときだった。土方を主役に描いた司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」を読んだ。「日野宿」「高幡不動尊」――そこに登場する馴染みの地名。自分が生まれ育った日野と新選組との深いつながりを知って興奮した。
 「百姓に生まれ、剣の道でのし上がった。負けると知りながら節義を貫き、守るべきもののために信じる道を走り続けた」。そんな土方や近藤らの生き方にも惚れ、全国の新選組の名所を訪ね歩くようになり、現地の同好会とも交流を深めた。
 「新選組ゆかりの地である日野でも、新選組を熱く語り合える仲間がほしい」。2000年春に13人の同志を集めて同好会を立ち上げた。一時は120人を超えたこともある。
 いま人数は減ったが、会員の情熱がそれを補う。04年にNHK大河ドラマ「新選組!」が放送された後には、続編を求める3万8千人分の署名を1年かけて集めた。それが大河史上初の続編制作へとつながった。
 ドラマの影響で会の知名度も一気に向上したが、まだ満足できないことがある。
 官軍との激戦地だった福島県会津地方では、新選組は地元を語る文化の一部になっているという。それに比べて日野での新選組の位置づけは、商売や観光の目玉というところに置かれたままになっているのではないか。
 「郷土の誇りとして、新選組が日野のまちに根付いていってほしい」
 この思いこそが、同好会の原点でもある。
 和菓子の老舗・高幡まんじゅう松盛堂の会長。06年から日野市議会議員を務めている。


写真は峯岸さん提供

《中央大学ジャーナリズムゼミ》大浜悠佳・佐宗日奈子・高橋哲朗

2010年8月20日(金)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ151号【甲子園まであと一歩 「考えさせる野球」で強豪校に】

都立日野高校野球部 監督 嶋田雅之さん(47歳)

 あの日のことを思い出すと、いまも悔しさがこみあげる。
 昨年夏の全国高校野球選手権大会西東京大会準決勝で強豪・日大三高と対戦、中盤まで4点をリードしながら、6対7で競り負けたときのことだ。しかし、選手たちは臆することなく戦いを挑み、春、夏の全国優勝校を撃破するまで、あと一歩というところに迫った。それは、自分の中で「甲子園」が初めて現実味を帯びた瞬間でもあった。
日本体育大学を卒業後、体育の教諭となり、都立の八丈高、砂川高、小平西高を経て、2007年に日野高に赴任した。監督を引き受けたのは、翌年の秋。それからは2つのことに力点を置き、選手たちの指導にあたってきた。
1つは、選手たちの基礎体力を引き上げること。そのために、それまでは半日で終わっていた休日の練習を1日に延ばし、日々の練習では、「地味できつい」ランニングや筋肉トレーニングの量を増やした。
 もう1つは、選手たち自身に考えさせること。守備でも打撃でも手とり足とりの指導はせず、気付いた点だけを伝える。「重心が前になっている」「軸足が動いている」。それをどう修正していくかは、選手自らが考え、実行していくように仕向けた。
その成果は思った以上に早く表れた。昨年の西東京大会でのベスト4入り。続いての秋の都大会では、準々決勝の最終回に4点差を跳ね返してサヨナラ勝ちを収め、都立高でただ一つ4強入りを果たした。
 実戦の舞台では、局面ごとに臨機応変のプレーが求められる。常にそのことを想定し、それに打ち勝つ方法を個々に考え、技術を高める練習を積んできた。それによって、「うちの選手たちは、多くの『引き出し』を持っている」。そのことを確かな手応えとして感じ取れる逆転劇だった。
 指導の原点は30年前、桜美林高校野球部に在籍していた当時に遡る。夏の甲子園で初出場、初優勝の偉業を成し遂げた監督と、野球部長の教諭から同時に指示が飛ぶ。2人の指導はときに異なり、戸惑う場面も少なくなかった。そこから学んだのが、自ら考え、動ける選手になることの大切さだった。
 「野球は瞬時の判断とプレーが求められるスポーツ。言われたことをやるだけではだめだ」
 昨年の夏、日野高OBのミュージシャン、故忌野清志郎さんの代表曲「雨あがりの夜空に」に乗った大声援が神宮球場に響いた。今年の西東京大会は7月3日に開幕。その曲を背に、都立高では唯一のシード校として、甲子園への熱い想いを込めた戦いが始まる。

《中央大学ジャーナリズムゼミ》江種伸彦・後藤隆之・常谷奈緒・高橋哲朗

2010年7月20日(火)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ150号【ミニコミ取材を財産に報道の世界へ 中央大学ジャーナリズムゼミ紹介】

 中央大学でジャーナリズムを学んでいる私たちゼミ生は、中央大学でジャーナリズムを学んでいる私たちゼミ生は、日野市の朝日新聞販売店(ASA)6店が毎月発行しているミニコミ紙に地元で活躍している方々を紹介させていただいています。今月は、私たちのゼミ活動について報告させていただきます。 私たちのゼミにはいま、法、経済、商、文、総合政策の各学部から2年生12人、4年生6人、聴講生の6人が集まり、朝日新聞の元記者で社会部長、編集局長を務めた松本正特任教授のもとで日々の活動に励んでいます。
 活動の柱は主に2つあります。1つは週1回の授業です。ここでは「普天間基地移設問題と日米同盟」など国内外で起きている出来事をとりあげ、新聞やニュース映像を教材にしながら複雑に絡み合った問題を読み解き、本質を探る勉強を重ねています。そのうえで、自分の考えを文章にまとめ、ゼミ生全員で批評し、議論をしています。このために授業は所定の90分では終わらず、通常は270分、時に閉門時間の夜11時まで続くことがあります。 活動のもう1つの柱が、ミニコミ紙の取材です。ASAの支援をいただき、ゼミ生2、3人で班を作って地元で活躍されている方々を取材し、記事にしてきました。これまでに紹介させていただいた方は34人を数えます。 
 取材や記事の執筆ではいつも多くの壁に突き当たります。紹介させていただく方をどう探し出すか。締切日が迫った時などは、人を見つけ出せずにミニコミ紙を白紙で出してしまった場面が夢に出てきて、夜中に跳び起きるということもありました。
また、1回の取材では十分にお話を聞けず、いつも再取材、再々取材をお願いしています。こうした取材を通して得られた経験は、私たちの貴重な財産です。
この春に卒業し朝日新聞社に入社した成田太昭先輩は、「何度も足を運びお話をうかがっている中で、信頼を得られたと思える瞬間が何回もあった。その喜びを知るたびに、記者を目指そうという思いが強くなっていった」と話しています。
「松本ゼミ」がスタートして5年、卒業生は、朝日新聞と読売新聞、毎日新聞、NHKに各3人が合格。それに、日本経済新聞や中日新聞、信濃毎日新聞、テレビ朝日などの入社試験を突破し、JR東日本、東京電力、コスモ石油などマスコミ以外で活躍している卒業生もいます。
読者の皆様からは毎月、ご意見、ご感想をお寄せいただき、本当にありがとうございます。これからもご愛読、ご支援をお願いいたします。

《高橋哲朗・追分友里》

2010年6月20日(日)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ149号【安全を究め、地球環境に優しい車を 次世代の電気自動車を日野から世界に】

首都大学東京大学院システムデザイン研究科教授 武藤 信義さん

 日野市旭が丘の首都大学東京日野キャンパス。真冬の凍った路面を2台の車が走る。ブレーキを踏むと1台は大きくスリップしたが、もう一台はわずかな横揺れもなく静かに止まった。「FRID EV」と名付け開発に取り組んできた電気自動車の走行実験。見守る学生から歓声があがった。
 「FRID EV」のコンセプトは、「安全性を究極の域にまで高め、地球環境の保護に貢献しながら、快適な走行を楽しむ」。この10年余り、中でも「安全性」にこだわりを持って研究を重ね、2年前に一つの「集大成」となる今のタイプの車を完成させた。
 ボディーは市販のガソリン車だ。しかし、前輪と後輪の両方にモーターが据え付けられ、一方のモーターが故障したときにはもう一方のモーターが瞬時にそれを感知し、同じ速度で走り続ける装備が施されている。
 一つのモーターだけだと、故障したときは車が急停車し、横に滑ったり、後続の車に追突されたりする恐れがある。このシステムを備えておけば、そうした危険は回避することができる。
 また、前輪と後輪が独立して動く独自のシステムを考案。雪道や凍った路面を走るときには、前輪が悪路に触れた瞬間にセンサーで感知して後輪に伝え、タイヤの空転やスリップを抑える工夫もこらされている。
 自ら企業などを回って開発資金を集め、寝るのは毎日午前2時を過ぎてから。「日野で生まれたFRIDEVは、いずれ次世代の車社会の中心になる」。積み上げてきた研究の成果は国際会議で発表し、数々の特許も取得、すでに実用化できる段階にまで来ているという。
 大学院で応用物理を学んだ後、電車やエレベーターなど「乗り物全般」を扱う企業の研究室に籍を置いた。しかし、企業は費用と価格とのつり合いにとらわれる。製品の安全性は追求しているものの、想定外で起きるトラブルの対応までは考えていない。そのことに研究者として疑問を抱き、究極の安全性を追い求める場として首都大学東京を選んだ。
 「完璧」と思った物でもいずれは壊れる。それが乗り物であれば、人の生命を脅かしかねない。「想像力を豊かにし、起こりうる故障を常に考えながら、物づくりに当たるのが工学の使命だ」
 3月の卒業式。ともに研究にあたってきたゼミ生たちに色紙を贈った。
 「人間万事塞翁が馬」
 社会で生きていくうえで一喜一憂することなく、夢を求めてがんばり続けてほしい。そうした思いを込めて毎年、ゼミ生たちに贈り続けてきた言葉だ。

《取材と記事》中央大学ジャーナリズムゼミ=佐藤百合・辻侑香里

2010年5月20日(木)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ148号【氷上のF1、世界一の美で走り抜けた 中央大南平寮から五輪の舞台に】

バンクーバー五輪ボブスレー代表 浅津 このみ さん(23歳)

 バンクーバー郊外、ウィスラーの五輪会場。現地時間2月23日、夜空に雪が舞う悪コンディションの中、175センチ、73キロの体を瞬時に躍動させ、重さ190キロのそりを一気に押し出した。初めのスプリット5秒56。イメージ通りのダッシュができた。
 全長1300メートル、最高時速140キロで16のカーブを乗りきる。このコースを2日間で4回滑走し、合計タイムで順位が決まる。3回目までは難所のカーブでタイムをロスしたが、4回目、操縦を担当する桧野真奈美選手(29歳)の技が冴え、21チーム中16位まで順位を上げることができた。
 日本チームのそりには振袖姿と富士山をデザインした美しい絵が描かれ、「芸術では金メダル」と会場の話題をさらった。
 「氷上のF1」と言われるこの競技に出会ったのは、これより半年ほど前、昨年8月のことだった。ボブスレー日本代表監督から突然、長野・菅平の合宿に呼ばれた。
ボブスレー2人乗りには、操縦を担う「パイロット」、重いそりを瞬時に押し出してハイスピードに乗せる「ブレーカー」という明確な役割分担がある。
 中央大学女子陸上部に所属し、7種競技で08年の日本学生陸上競技対校選手権大会優勝、日本選手権で2位に入った実績。「走る・跳ぶ・投げる」の力を兼ね備えた高い身体能力にブレーカーとして白羽の矢が立てられ、「君なら代表になれる」と繰り返し誘いを受けた。
 合宿には、ソフトボールのエースでシドニー、アテネ五輪のメダリスト高山樹里選手ら「雲の上のような」アスリートが集まっていた。代表に選ばれるのは、その中の1人。「挑戦する以上は負けられない」。12人の候補から絞られた4人で欧米6都市を転戦、ワールドカップの実戦で競い合うサバイバルの選考に臨み、抜きん出たパワーで五輪出場権獲得に貢献、同時に代表の座を射止めた。
 大学では教育心理学を専攻。日野市南平の寮に住み、「故郷の出雲に似ている」豊かな自然の中で体を鍛え、技を磨き、中央大学125年の歴史の中で初の冬季五輪出場という快挙にもつなげた。
 「自分に出来ることは、恐れず、ためらわずチャレンジしていく。アスリートとして生きていくうえで、オリンピックはそのことを教えてくれた」。島根の企業に所属し、これからも7種競技とボブスレーを続ける。追う夢は、「夏と冬の五輪に出場し、2つの競技でメダルをとること」。天に突き抜けるような笑顔で、力強くそう語った。


写真は浅津さん提供(バンクーバー五輪閉会式で)

《取材と記事》中央大学ジャーナリズムゼミ=天野美香・長井雅和

2010年4月20日(火)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ147号【団地全体で高齢者を支える態勢を 「長生きしてよかった」と思える団地に】

多摩平の森団地自治会長 笹原 武志さん(62歳)

 空いっぱいにユリノキが枝を広げる並木道。住民が力をあわせて草花を育てる共同花壇。その間を楽しげに散策する親子の姿。日野市多摩平の森団地には、映画のワンシーンのような光景がいたるところに広がっている。
 故郷の山形から上京し、この団地に居を定めたのは、33年前のことだった。13階建て1棟の部屋数は、自分が生まれ育った村の総戸数と同じ102戸。首都のベッドタウンを象徴する大規模団地の生活に戸惑いはしたが、いつしか住民同士の心地よい連帯の輪が広がり、ここでの暮らしを「心の底から愛している」と実感できるまでになった。
 ここに至るまでの間、最も記憶に残っているのは、自治会長をしていたときから取り組んできた団地の建て替えプロジェクトだ。
 全国で初めて日本住宅公団(現・都市再生機構)と日野市、それに自治会の三者による建て替え協議会を結成。「壮大な実験」と覚悟を決めて公団、市側と渡り合い、高齢化していく団地の将来を見据えながら、「より良い暮らし」を実現していく具体案を住民の側から積極的に提案した。結果、多くが採用され、その後の公団住宅建て替えのモデルになった。
 20年近くに及んだ建て替えは、2年前に完了した。そして、いま、「暮らしやすい団地作り」に向け、次なる「壮大な実験」に取り組んでいる。
 団地のたたずまいは、ほぼイメージ通りに仕上がったが、高齢化の波も予想していた通り団地の隅々にまで押し寄せてきている。かつては世帯主の大半が30代から40代、子どもたちの歓声があちこちに響いていた情景は一変し、今では70歳以上の人が900人を数える。
 この時代の移り変わりに沿って、高齢となった人たちを団地全体で支えていく態勢をどのように整えていくか。「ここに住んでよかった、長生きしてよかった」。そうした団地のコミュニティーをどう作り上げていくか。
 寝たきり予防の体操教室、健康について学ぶ講座。まだ手探りではあるが、団地で開催する様々な催しには、多いときで200を上回る人が集まり、ここでもまた世代を超えた交流の輪が確実に広がっている。

 《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=二俣友香・後藤隆之・脇山理子

2010年3月20日(土)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ146号【人と犬との共生目指して ドッグランで伸び伸びと】

「ひのわんパークの会」前会長 伊藤 叡二さん(69歳)

 日野市上田の浅川河川敷に都内で初めての市営ドッグラン(犬の遊び場)「わんパークひの」がオープンしたのは、05年10月のことだった。ボランティア団体「ひのわんパークの会」会長としてその開設に奔走し、いまも「犬の目線」に立ちながら、人と犬とが共に歩んでいける地域社会の実現に情熱を燃やしている。
 小型犬用に448平方メートル、大型犬用に800平方メートル。駒形公園の跡地に設けられたドッグランには市外からも愛犬家が集まり、休日には100匹から200匹の犬たちが走り回る。飼い主たちの会話も弾み、互いの経験談が「しつけ」の格好の教材にもなっている。
 10数年前、愛犬のビーグルを散歩させていたとき、ラブラドールレトリバーの親子によく出会った。ある日、その3匹を公園に放してみたところ、取っ組み合い、じゃれあいながら30分も1時間も飽きずに遊びまわった。「美しい」。伸び伸びと駆け回るその姿に、しばし見惚れた。「これこそが、本来の犬の姿だ」
 しかし、現代社会では、公園内であっても犬をリードに繋いでいなければ都条例違反になる。
 「犬を安全に思い切り遊ばせられる空間を作ってあげることはできないか」。子犬のときから多くの人や犬と触れ合う機会を設けていけば、吠え癖や噛み癖がつくのを防ぐこともできる。
 同じ思いを持っていた愛犬家が集い、その実現に向けて行動を開始したのは、01年1月のこと。市有地に市営ドッグランの開設を求める署名活動から始め、2000人の賛同を得て市や市議会に陳情、請願を続けた後、05年春にそれが実り、ようやくオープンにこぎつけることができた。
 会のメンバーは現在30人ほど。自らもその一員としてボランティアでドッグランの運営にあたり、プロの訓練士による「しつけ教室」の開催などにも携っている。
 ここまでの10年の道のり。「仲間の皆さんと一緒に社会活動として行動できたことが大きな喜び」。その仲間をつないでいるのは、犬たちの幸せを願う心。「だから、ドッグランを走り回る犬たちもまた会の有力なメンバーなんです」

《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=追分友里・大浜悠佳・土山万貴子・成田太昭

2010年2月20日(土)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ145号【日野で巣立ちニューヨークで開花 音楽は感性、「旋律に色が見える」】

ピアニスト さい ちはる さん

 初めは優しくゆったりした旋律の曲。次にはフラメンコ調の情熱的な曲。締めくくりはショパンの「子犬のワルツ」。秋晴れに恵まれた文化の日、日野市民会館で催された市功労者の表彰式。そのオープニングコンサートで、約400人の市民を前に美しい音の調べを披露した。
 在日韓国人3世として日野市日野で生まれ育った。国立音大付属高を卒業後すぐに渡米。名門・マンハッタン音楽院の博士課程を03年に修了してからは、ニューヨークを拠点に音楽活動を進めている。
 「頼まれればいつでも」というほど数多くのコンサートをこなし、市民会館でのコンサートも今回で3回目になる。08年秋には日本でCDデビューを果たし、それに合わせて港区のサントリーホールでリサイタルを開いた。
 ピアノを始めたのは6歳のとき。「ピアノを習っている友だちが先生からもらうヒヨコのハンコがほしかった」。プロを目指すには遅いスタートだったが、中学生のときには1日4時間の特訓に励み、めきめきと頭角を現した。
 しかし、振り返ると、ピアノ一筋の人生というわけではなく、少女時代は「おてんば娘」で育った。多摩川で水遊びをしたり、雪の日にはソリで遊んだり。「音楽は感性」という思いを強く抱くいま、豊かな緑、四季の美しさにあふれた日野の自然環境は、音楽家としての自分には「天国だった」と語る。
 「音楽だけでは音楽は分からない」が持論でもあり、渡米後も初めは心理学や人類学などを学べる総合大学を選んだ。最近ではアクリル絵も始め、それからは自らが奏でるピアノの旋律の中に、「色が見えるようになった」という。
 人とのつながりも大切にし、見知らぬ人にもよく話しかける。いまマネージャーをしてくれている浦真弓さん(60)とも、学生のときに米国から一時帰国した際に日野市内のバス停で出会い、話が弾んだことがきっかけだった。
 「音楽は『分かち合い』。自然や人間、いろんなことにつながっている」
日野では母校の小学生と共演した。他の演奏家との共演にも活動の幅を広げ、今後は、ダンサーなど他分野の芸術家とのコラボレーションも考えている。


写真は、さいさん提供

《取材と記事》中央大学ジャーナリズムゼミ=大友らむね・高橋哲朗

2010年1月20日(水)発行              ▲一覧に戻る▲

ミニコミ144号【「美しいけん玉」を伝えたい 極めた道は「原点復帰」

けん玉の実力最高位 田辺 重雄さん(52歳)

 技の数は何万にものぼり、その腕前を競う全国大会や段位の認定制度まで設けられている。そんな奥深いけん玉の世界に魅了されて19年。実力で取得できる最高位の六段に昇りつめた今も「美しいけん玉」の普及を目指し、後進の指導に情熱を燃やしている。
 けん玉の奥義に触れたのは日野市に移り住んだ91年の春、新宿御苑で「日本けん玉協会」の名人たちによる模範演技を目にしたときのことだった。名人は膝を深く折り曲げた姿勢から体を一気に伸ばして持ち手の「けん」を空中に飛ばし、体操選手のようにそれを2回転させた後、手に握った玉の穴にけん先をすっぽりと収めた。
 「2回転飛行機」と名付けられた上級クラスの技。子どものころの遊びとは「異次元」の妙技に衝撃を受け、ひの社会教育センター「けん玉道場」の門を叩いた。
道場での週1回の練習に加え、自宅でも毎日1時間の特訓に励んだ。さらに勤め先の同僚たちとけん玉サークルを作って技を磨き、11回目の挑戦で五段を取得、99年に念願だった六段への昇格を果たした。
 それを機に指導者としての道に入り、道場ではいま小学生から70歳代まで20人ほどの指導にあたっている。
 その一方、けん玉日本一を目指す子供たちを対象に「塾」を設立して高度な技の伝授にも努めている。塾生は10人に満たない数ながら、08年には文部科学大臣杯で男子が準優勝、09年には女子が3位に輝いた。
 指導は試行錯誤の繰り返しだった。「どうすれば技を上手く伝えることができるのか」。思いを巡らせていたある時、名人と言われている一流の人たちの技に共通の型があることに気づいた。構えた場所(原点)にけん玉をしっかりと戻す(復帰)。基本に忠実に沿ったそのフォームは『原点復帰』と呼ばれ、それはそのまま「けん玉の美」を体現していた。
 構える位置、技を繰り出す角度、重心のかけ方。手とり足とりの細かな指導で子どもたちは着実に腕を上げ、技を会得できたとき「先生、できたよ」と体を小躍りさせる。
「美しいけん玉」をもっと広めていくために、自らのホームページ(http://kendama.com/)でも、その極意を公開している。

《取材と記事・写真》中央大学ジャーナリズムゼミ=實延達郎・高橋哲朗

2010年1月1日(金)発行              ▲一覧に戻る▲